キセキという名のもとに

私達の活動名は「キセキ」としている
カタカナにしたのは、74年もの間世界へと旅立った遺留品が
ご遺族の元へと返還出来る奇跡が起きる「キセキ」であり
出征された一人の兵士の軌跡の「キセキ」でもある。

奇跡と呼ぶのはたやすい、だが奇跡は一度だからこそ
奇跡であり、二度起これば奇跡ではない

その奇跡をご遺族への橋渡し役となるのが
私達の役目だと自分は思っている。
これも軌跡のヒトカケラでもある。
私事になりますが、自分は19歳の頃から浜田省吾が好きで
もうかれこれ36年目になります。
本日シングルで発売開始された「凱旋門」
彼は広島生まれで戦争を語るように奏でるヒトで

そしてお父様が警察官で被爆者でもある。

この曲の歌詞には兵士と入っている。

発売日が本日9月4日
74年前の月日と合わせているのだと思う。
なぜかというとこの曲の詩にはこう書かれてる。

戦い疲れた兵士が今
帰ってきたよ、帰ってきたよ。

9月2日は東京湾に停泊した戦艦ミズーリ号での
降伏文書調印式をされた日= 終戦

その2日後に発売日

凱旋門

もう少し傍にいて
幾つもの夜を
ひとりきり過ごしてきた
ぬくもり ほほえみ
頬にかかる甘い吐息

愛はいつも悲しみだけを
君のもとに 残してきたけど
もう泣かないで 僕は君だけのもの

別れたあの時と
同じように今夜
窓の外 静かな雨
いつでもポケットに
君の写真 抱いて寝たよ

人はいつも 失くしたものの
重さだけを 背負ってゆくけど
もう離さない 君は僕だけのもの

戦い疲れた兵士が今
帰って来たよ 帰って来たよ

愛はいつも悲しみだけを
君のもとに 残してきたけど

人はいつも 失くしたものの
重さだけを 背負ってゆくけど

愛はいつも悲しみだけを
君のもとに 残してきたけど…

私の好きな一曲です。

今、自分が思うこと。
一言でいいつくす言葉のキセキが私にはほしい。

 

 

北海道新聞に載りました!

北海道新聞に日章旗を摩周丸に寄贈した記事が載りました。

記事は主見出しに「戦中の日章旗 摩周丸に」とあり
袖見出しには「米から寄贈 徴兵の 船員宛」

以下記事全文です。

「祝樋坂秦助君入営」と大きくしたためられた筆文字の
日章旗が、函館市青函連絡船記念館摩周丸(’若松町)で
保管されている。
戦時中に徴兵された船員に宛てられた。
米国に長くあったが、今春、記念館に届けられた。
関係者は「貴重な資料として残していきたい」と
平和への願いを新たにしている。(齊藤直史)

「来夏にも公開へ」

日章旗は今年4月。イリノイ週の団体
「キセキ遺留品返還プロジェクト」を通じ
記念館に届いた。

同団体によると、日章旗は元米陸軍兵士の
ウイリアム・ザビンスキー氏(故人)の息子2人が
所有していた。

ザビンスキー氏は戦時中、グアムやフィリピンなどに
配属され、戦後は1945年9月から46年11月まで進駐軍
として北海道に滞在した軍歴が残っている。

一方、日章旗の入手時期については家族にも
話してないという。

息子2人は日本への返還を希望。
記念館を訪れたことがある団体関係者が
旗に残された同船の山田友二さん(94)の署名を
もとに打診した。
山田さんは1944年(昭和19年)に3等航海士となり
樋坂秦助さんは連絡船「飛鸞丸」の操舵手として
共に働いた年上の同僚だった。
召集は「その年の夏頃」と記憶する。

樋坂さんの出征記録や、鮮度の足取りについては
はっきりしていない。
97年時に、同姓同名の人物が民生委員として活動した
記録が函館市に残る。
「近所に住んでいた」
「戦後も青函連絡船の職員として働いていた」
などの市民の証言もあるが、日章旗をおくられた
樋坂さんと同一人物であるか、確認は出来ていない。

日章旗には日の丸を同僚らの「玉砕」「撃滅」と
いった言葉が囲む。
当時多用されていた「至誠」の言葉を記した
山田さんは「無事に帰ってきていたなら、もう一度
会いたかった。日章旗は本人に返還されることが
望ましい」と話している。

寄贈を受けた記念館の指定管理者のNPO
「語りつぐ青函連絡船の会」にょると
連絡船は戦時中、石灰輸送などの国策を担い
次々に造られた。船員は不足していたとみられ
徴兵は珍しかったとみられる。
一方、45年7月の函館襲撃で300人以上の船員が
なくなっている。
同会の高橋摂事務局長は「筆文字や汚れなど
保存状態が大変良い。二度と悲惨な戦争を
起こさない思いを強くした」と話す。

同会は来夏にも展示会で日章旗を公開する。

この日章旗の捜索にご協力頂きました。

HTB放送報道部
北海道新聞
摩周丸博物館
賢明女子学院 松浦校長様

本当に有難うございました。
米国から日本へと74年の長旅は
無事に最終章を迎えられました。

米国から日本
日本から摩周丸への長い道のり

 

東奥日報Web記事です!

https://www.toonippo.co.jp/articles/-/234592

東奥日報のWeb記事に載りました。
返還活動から半世紀の時を迎えました。
日本では1番古い遺留品返還活動プロジェクトです。

「日本に戻ってこそ英霊が安らげる」

今も米国内に残る旧日本兵の遺品を故郷に返そうと
在米の日本人らでつくる遺品返還グループ「キセキ」が
半世紀に及ぶ地道なボランティア活動を続けている。
青森県内にも過去、複数の遺品を返還した。
7月末には、唯一の手がかりが「弘前」という、
青森県にゆかりのある北海道の男性に兄の遺品を引き渡したばかり。
決死の覚悟で日本を離れた兵士の「帰還」を願う、
1年がかりの執念の調査だった。

東奥日報様、有難うございました。
少人数で活動していますので、情報をアナウンスされるのは
私達にとって、とても助かります。
今後とも宜しくお願い致します。

白黒写真をカラーへ

昭和十一年一月 宇栄原キミヨ」さんの写真
持ち主探してます元米兵の遺品から見つかる

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/383136

昭和11年1月に撮影された写真を
沖縄タイムスのweb記事にして頂いた

写真は白黒だが、つい最近白黒からカラーにするサイトを
見つけ、試したらとても良い出来具合になる。

過去や昔といった遠い感覚や距離感は一気に縮まり
今でも生きているかのような、そんなキモチになる。

もしご遺族にカラー化したのをお渡ししたら
「帰ってきた」と喜んでくれると思う。

このカラー化した画像と白黒写真2枚セットにして
ご遺族へお届けしたい。

昭和11年の白黒画像をカラーにした画像はこちら。

十勝毎日新聞に載りました。

昨日、満州へ出征された小丹枝さんの情報を求め
十勝毎日新聞に掲載して頂きました。

これは先月、日高報知新聞1面トップで
載っていた返還アルバムの中の1枚数です。
何十枚もの写真が貼られていたのですが
個人を特定出来る写真はこの一枚だけでした。

出来れば、この一枚の写真でも
ご遺族に返還をしたいです。

十勝毎日新聞様、有難うございました。

【速報】日高報知新聞1面トップです!

  弟の源次郎さんです。

やっとアルバムをご遺族へとお返しすることが出来ました。

キセキ〜遺留品返還プロジェクト〜の名も大きく取り上げてもらい
有難うございました。

Web URL  http://www.hokkaido-nl.jp/article/12744

ネットの記事を読み終えた瞬間、深い溜息と涙と共に
全身の力が一瞬抜けたような不思議な感覚になりました。

良かった。もうこの一言です。

ホント、捜索するきっかけがあまりにも少なく
あっという間に1年が過ぎました。
情報の呼びかけに協力して頂いた、東奥日報様
山形新聞様、北海道新聞様、そして記事にしていただいた
日高報知新聞様、有難うございました。

心から感謝申し上げます。

太平洋戦争末期の激戦地だった南の島・サイパン島で、昭和19年(1944年)
夏に戦死した浦河町出身の旧日本兵の遺品が、70年以上の時を経て、米国から同町に住む遺族の弟のもとに返還された。遺品は本人の写真を含め、絵はがきやブロマイドなど約80枚を収めた写真帳。米国で遺留品の返還活動に取り組むジャガード千津子さん(67)=イリノイ州在住・愛知県出身=の諦めない情熱あふれる地道な活動が実った。

写真帳の持ち主は、浦河町井寒台出身の今光五郎さん(大正9年・1920年11月17日生まれ)。満州からサイパン島に配属替えとなり、昭和19年7月18日に
マリアナ諸島・サイパン島で亡くなっている。

この遺品を受け取ったのは、井寒台に住む弟の今源次郎さん(89)。
光五郎さんが最初の出征地の満州に赴いたのは源次郎さんが10歳ごろ
(昭和15年・1940年)で、「兄の姿を見たのはそれが最後だった」という。

この写真帳は、昭和20年(1945年)に元米海兵隊員のアール・パルマロさん(カンザス、昨年1月に93歳で死去)が持ち帰った。
遺産整理で娘のマーサ・ミックさん(フロリダ在住)が写真帳を見つけ、
ジャガードさんが所属している日本人の遺留品返還に取り組む在米日本人医師が主宰し米国と日本で日本人7人で活動している「キセキ遺留品返還プロジェクト」へ、遺族への返還依頼があり、これまで長い時間を費やし調べてきた。

写真帳や本人の写っている写真(5枚)に名前などの手掛かりになるものはなく、当初、青森県の弘前公園の絵はがきが多いことから、県紙の「東奥日報」に光五郎さんの写真とともに記事を掲載してもらい、知っている人はいないか呼び掛けたが、反応はなかった。

その後、戦友と映っている写真に北海道の帯広地方周辺に多い「小丹枝」の名を手掛かりに、ジャガードさんは昨年11月に来道。戦没者資料の多い旭川市の北海道護国神社などを訪ね、北海道新聞にも同様の記事を掲載。今源次郎さんは、新聞の写真を見て「兄に似てる」と直感し、江別市に住む長男の哲也さん(62)=江別市非常勤嘱託職員=に相談。哲也さんは同神社に「浦河町出身の叔父に似ている」と問い合わせている。

ジャガードさんによると、神社とのやり取りで「浦河町出身の可能性が高い」ということまでは判明したが、哲也さんが神社に伝えていた名前や連絡先などは神社側との行き違いでジャガードさんには伝わらなかったという。

調査先を浦河に絞り、役場経由で本社に同様の写真と記事の依頼があった。浦河町遺族会の事務局は町が担当しているが、資料は戦没者と遺族の名前のみで手掛かりはなかった。

記事掲載前に本社であれこれ探ったところ、町郷土博物館の伊藤昭和学芸員から浦河町史に戦没者の亡くなった場所や戦死月日など詳細な一覧があることを教えてもらい、所有者は今光五郎さんと判明。弟の源次郎さんが健在で、自宅には各新聞に掲載した写真と同じ顔の光五郎さんの写真も数枚所有していた。

米国の遺族からジャガードさん、本社経由で源次郎さんと駆け付けた哲也さんのもとに返還後、21日には僧侶を呼び、親族らで写真帳の供養も行っている。

源次郎さんは、年が10歳離れた兄が戦地で散った時に持っていたこの写真帳を万感の思いで見つめ、返還に尽力したジャガードさんにも「感謝の気持ちを伝えたい」と話している。

ジャガードさんは「目元が亡くなった父に似ていて、これまで光五郎さんの写真は何百回も見てきた」と振り返り、「満州からサイパン島に渡った写真帳が、1945年に米海兵隊員の手でアメリカに持っていかれ、昨年1月まで73年間、カンザスで眠っていた。それが、フロリダの娘さんの手に入り、今年、イリノイ経由で北海道まで旅をしました。若くして果てた兵士の遺品に多くのストーリーが詰まっていると感慨にふけっています」と話している。

 

朝日新聞(海外版)にも載りました。

http://www.asahi.com/ajw/articles/AJ201907240001.html

When Yasuhiko Kaji heard about someone seeking assistance in returning the photo album of a Japanese soldier found on Saipan to its original owner,
he “enlisted” in a repatriation effort of his own.

As many belongings of Imperial Japanese Army soldiers are sold at flea markets in the United States featuring military-related items, Kaji began purchasing a Hinomaru flag filled with farewell comments, a pocket notebook, picture and other keepsakes.

When the mementos bear the owners’ addresses or the names of their hometowns, he contacted their families to hand the items over. Some people who learned about his activities have even made donations over the years.

“If souls exist in this world, I would like them to return to their families along with their keepsakes,” said Kaji.

Kaji, a doctor from Mie Prefecture who lives in the United States, has been returning the personal possessions of Japanese soldiers killed in World War II to their bereaved families for half a century.

Kaji, 85, who resides in Ohio, began 50 years ago seeking the relatives of Japanese service members who died in the bloodiest battlefields in the war, so that their Hinomaru rising sun flag, letter, photo and other articles taken by U.S. military personnel can be repatriated.

Having a grandfather and father working as military doctors, Kaji enrolled in Nagoya University’s school of medicine, studied at a graduate school and then started working as a researcher at a U.S. college.

He later opened an obstetric clinic in the United States.

Around 1970, a woman who later became Kaji’s wife was asked by an American friend to help repatriate the photo album found on Saipan. That started Kaji on his long path to returning the wartime souvenirs brought back to the United States.

Kiyoshi Nishiha, a close high school friend of Kaji, opened a dedicated website around 2004 to assist in his efforts. More than 20 items collected by Kaji and shown on the site have been returned to their bereaved families.

After Nishiha died in 2010, his eldest daughter joined Kaji’s project according to the wishes of her late father. A friend of Kaji, who is a retired U.S. service member, also started assisting in the effort.

One of those new members, Chizuko Jaggard, now 67, who hails from Kariya, Aichi Prefecture, moved to Illinois after graduating from a university. She found a Hinomaru flag while sorting through the possessions five years ago of her late father-in-law, a former U.S. Marine.

Hoping to repatriate the flag, Jaggard contacted Kaji’s group, called Project Returned Memories Kiseki, through his site to join the activity. The group currently comprises Kaji and two others living in the United States and four people in Japan.

In November 2018, Jaggard visited Emi Nomura, 54, who lives in Yokohama, and her father, who resides in the Goto island chain off Nagasaki Prefecture. She had with her an old letter penned by Nomura’s uncle, Shigeo Yamaguchi, which is addressed to his supervisor at the company where he worked before going to the front.

Yamaguchi was killed in fighting in the Marianas in the western Pacific around July 1944, according to Nomura.

Reading the letter, Nomura felt that “my young uncle must have had many things he wanted to do after returning from the war.”

The returned missive was one of 11 letters found among the personal possessions of a deceased U.S. Marine in May last year.

Jaggard, who has also contributed articles to newspapers calling for the repatriation of mementos of the war dead, has been searching antique shops and estate sales for keepsakes of Japanese soldiers for five years. She is concerned about the decreasing number of bereaved family members over time.

She also said some younger bereaved relatives are not interested in their ancestors and are unwilling to accept their families’ keepsakes.

“I want to return mementos in a way that both recipients and senders will feel happy about,” Jaggard said.

For more details on the activity, contact Project Returned Memories Kiseki at (senso_ihin@outlook.jp)

この記事を拝読され、私達の返還活動に協力していただける方のために
連絡先も載せて頂きました、有難うございました。

本日の朝日新聞(夕刊)

私達の遺留品返還活動が朝日新聞に載りました。
返還活動を始めて、今年で50年目になります。
現在、返還に取り組んでいる多くのグループが
存在しますが、その中でも一番古い組織です。

これだけ長く続けていられるのは
慌てず急がずマイペースで
自然体の流れで活動出来ているからと
然程メンバーは多くありませんが
夫々の個人の持ち味や取り柄を生かせるよう
心掛けながら活動をしているからです。

しかし、終戦から74年経った現在の日本には戦争に出征され
若くして生命を落とされた青年達のご遺族も年々減ってきて
いるのも事実です。

今の私たちは当たり前かのように思っている、
目の前にある食物や飲料水
季節毎に変わる美しい山の景色や風景など、
全てが英霊達が守ってくれた貴重な宝です。

風化させずに後世に伝えていくことが私たちの
責務とも思っています。

朝日新聞さんからの転載の許可を得ましたので
此処に私達が今まで活動してきた記事を載せたいと思います。

この記事を担当されました小川様にお礼申し上げます。

有難うございました。

Web版

https://www.asahi.com/articles/DA3S14089272.html

 

太平洋戦争中の激戦地に残された日本兵の遺品。
日章旗や手紙、写真といったものが米軍兵士によって持ち帰られたが、
50年ほど前、遺品を持ち主の遺族らに返す取り組みが米国で始まった。
始めたのは米国に住む三重県出身の医師だ。
半世紀近い地道な活動はいま、新たなメンバーに引き継がれている。

昨年11月、横浜ログイン前の続き市の野村恵美さん(54)は、長崎・五島列島で暮らす
父親と一緒に1枚のはがきを受け取った。

はがきは、伯父の山口茂男さん(故人)が出征前に働いていた会社の上司に
宛てたもの。野村さんによると、山口さんは西太平洋のマリアナ諸島で
1944年7月ごろに戦死したという。はがきを目にして「若かった伯父は戦争から帰ったら、やりたいことがたくさんあったんだろう」と感じた。

野村さんを訪ねてはがきを届けたのは米イリノイ州に住むジャガード千津子さん5年前から日本兵の遺品返還に携わっている。はがきは昨年5月、元米海兵隊員の遺品を調べている中から出てきた11枚のうちの1枚だった。

ジャガードさんが加わる遺品返還活動は、米オハイオ州に住む加治安彦さん
が半世紀近くかけて築き上げてきたものだ。

加治さんは三重県出身で、祖父や父は軍医。
加治さんは名古屋大医学部に進み、大学院を経て米国の大学で研究員になった。その後、米国で産婦人科医院を開業した。

70年ごろ、後に加治さんの妻となる女性が、米国の知人から相談を受けた。
サイパン島から持ち帰られた旧日本兵の写真帳を持ち主に返したいという
話だった。

その出来事をきっかけに、軍装品のフリーマーケットで旧日本兵の遺品が多く
売り出されていることを、加治さんは知った。
寄せ書きされた日章旗や手帳、写真などを買い取り始めた。

住所や出身地がわかるものは、直接家族に連絡して返した。
加治さんの活動を知って寄付してくれる人もいた。
「もしも魂というものがあるならば、もう一度遺品と一緒に、
家族のもとに戻ってほしい」という気持ちだった。

2004年ごろ、高校時代の親友だった西羽潔さん(故人)が専用の
ホームページを制作。
加治さんが収集した遺品を掲載し、20点以上を遺族に返すことが
できたという。しかし、西羽さんは10年に亡くなった。

今度は、西羽さんの長女が父の遺志を継ぐように加わったほか、
加治さんの知人である米国の退役軍人らも参加してきた。
ジャガードさんも後に加わった一人だ。

愛知県刈谷市出身で、大学卒業後に米国に渡ったジャガードさん。
米海兵隊員の義父が亡くなり、5年前に遺品整理をしていて
見つけた日章旗を持ち主に返そうと思ったのが、
活動に加わったきっかけだった。
加治さんらのホームページを通じて、連絡をとった。

今、活動のメンバーは加治さんを含め米国に3人、日本に4人。ジャガードさん
は新聞に遺品返還を呼びかける記事を寄稿したり、古物商や遺産を売却処分する
エステートセール」などを回ったりしている。

ジャガードさんは「時間とともに遺族が少なくなっていく」と憂える。
世代によっては関心がなく、受け取りをためらう遺族もいるという。
「遺品を受け取る側と送る側が、ともに喜べる返還をしていきたい」

(小川崇)

私は一度も逢ったことがない亡くなられためぐみさんのお父様
まさか名前が全国紙に載るとはと、天国で「速報号外」が届いて
驚かれているのではないでしょうか。
私達の活動を暖かく見守っててくださいね。

判明です!

去年の春頃から捜索を始めた一冊のアルバムの
ご遺族が判明致しました。
アルバムには多くの写真があるものの情報がなく
なかなか手掛かりが掴めぬまま膠着状態が続き
捜索も難航し、東奥日報社や北海道新聞社に
協力を仰いだところ、叔父かもしれないという申し出があり
確認をして頂くために、新聞記事には載っていない他の写真を
見て頂き確認して頂きました

このアルバムは元米軍兵のご遺族からの依頼で捜索が
始まりました。
去年放送のNHKスペシャル「届かなかった手紙」にも
NHKの取材に応じて頂きました。
娘さんであるマーサさんの言葉がいつも頭に浮かびます。

「戦場で犠牲となった最期の言葉です」
「家族が受け取るべきだと思います」と。

マーサさんの優しい気持ちが伝わってきます。

これから先、遺品や形見などないと言われる
多くの日本兵のご遺族の為に橋渡しとなり
ご遺族との絆を結びつくよう活動して参ります

また、情報提供の呼びかけにご協力して頂いた
東奥日報社、北海道新聞社に心より感謝致します。
有難うございました。