74年ぶりに日本へ

以前、投稿しましたひとつの日章旗が現在
米国から日本へと戻られているところです。


日章旗返還を依頼されたザビンスキー夫妻です。


デイヴさんと返還活動に協力してくださっている
米国キセキ返還プロジェクト ジャガード・千津子さんです。

ジャガードさんは2016年11月に寄贈先である
函館市青函連絡船摩周丸へ立ち寄ったこともあります。

函館と青森を結ぶ連絡船として活躍した青函連絡船・摩周丸
館内では船長気分が楽しめる操舵室や無線室があり
連絡船の資料も展示されています。

今回、戦争を知らない私は多くの事を学ばされた日章旗となりました。
洞爺丸台風で1155人もの犠牲者を出し、それが交通手段の見直しの
きっかけともなり、天候に影響されず、安心・安全の輸送を目指し
国が1400億を投じられ北海道と本州を結ぶ青函トンネルの工事が
始まった。

青函トンネル工事の記録
https://www.youtube.com/watch?v=K1vwTo3_ze4

海難事故から60年以上過ぎた今でも校長先生の記憶として鮮明に残り
生徒たちへの教えとなっていること。
※賢明女子学院校長様、メール拝読しました、有難うございました。

洞爺丸に乗船していた宣教師であるディーン・リーパーさんは
海難死する直前に、混乱する乗客を手品で和ませたりして、
日本人の子供に自分の救命胴衣を着させ犠牲となり、
子供が生き残ったことや息子さんのスティーブン・リーパーさんは
広島平和文化センターの理事長を就任されたこと。

寄贈先となる函館市青函連絡船摩周丸のご担当者からは

●青函連絡船乗組員は「戦地に赴くことはまずない=戦死することはない」
と思っていた。
●しかし、船員も召集されるようになってしまった
●山田さんのような高級船員(商船学校卒)は、もともと海軍予備士官・
下士官で、軍事訓練も受けていた。
●連絡船乗組員が出征する(あるいは召集される)ことになったので、
みんなで寄せ書きをしたのではないか
●戦争末期には青函連絡船も空襲され、全滅した。

と、詳しく教えて頂きました。

この日章旗には第七青函丸や飛鸞丸とも署名がありますので
同僚の仲間の署名が濃厚で、昭和20年7月14日2隻とも
空襲を受けたという記録がありました。

なぜ、ここまで青函連絡船が米軍に狙われたのか、
それは石炭輸送という大動脈を断ち切る為でした。

また、北海道テレビ報道部の方からは署名されている
山田友二さんの件でお問い合わせしたところ
当時91歳で、ご存命であると知らせを受け

更には遡ること30年程前のNHKが制作された番組でしょうか。
(青函連絡船終航の際、制作されたと説明欄に有り)
山田友二さんが番組に出演されているの見つけました。
青函連絡船 栄光の奇跡 1時間02分過ぎから七重浜を歩いている
山田さんが登場し、洞爺丸台風について語られています。
https://www.youtube.com/watch?v=wJZwUJDHR20&t=2180s

その後、山田友二さんは青函連絡船摩周丸の船長ともなりました。
山田友二さんは「孫の世代に北海道と本州を結ぶ大動脈として
活躍した連絡船を伝えたい」と話している。

まさにこの日章旗は他の日章旗とは異なり
私たちの世代に伝えなければならない歴史的価値が有る
日章旗だと思います。

山田友二さんは現在93歳で今年2月4日〜8日まで
北海道新聞に「私のなかの歴史」と題し、掲載されていました。





この記事のおかげで寄贈された日章旗が
いつ頃署名されたのかまで解りました。

新聞記事にはこのように書かれています。
1944年4月、国策で運航されていた青函連絡船への勤務が命じられました」
「配属は飛鸞丸3等航海士、まだ19歳という若さでした」
9ケ月後には第八青函丸2等航海士に任命されました」

日章旗には 飛鸞丸 三運 山田友二と署名されております。
よって、この日章旗は1994年4月から1995年1月までの9ケ月間
なります。山田さんはまだ未成年だった頃かもしれません。

海難事故後は何かとご足労されたと思います。
今だからこそ言える生き証人として
これからも健康で長生きしてほしいものです。

返還にご協力して下さった
北海道テレビ報道部様
函館市青函連絡船摩周丸様
賢明女子学院校長様

そして何よりもザビンスキー夫妻とデイブ様に
心より深く感謝致します。

6名の少年飛行兵達

現在、6名の少年飛行兵達のご遺族捜しが難航しています。

予科練資料館などにある資料で人数が絞り込める程度の状態
また、私自身が予科練に対する知識が無いというのも理由のひとつ。

どうにかして、写真をご遺族の元へとお返ししたい。

そこで、この記事を読まれた方にお願いがあります。
6名の写真と裏側に書いてある名前などを此処に載せますので
何かご存知な方や詳しい方、情報がございましたら
senso_ihin@outlook.jpまでお願い致します。


百里原航空隊
甲練九期生
関矢 二飛曹

甲練九期生昭和16年10月1日入隊先は851名が土浦海軍航空隊

乙飛14期生
児島飛行兵長

雲染や
何処の空を今頃は
思い出の君

乙飛14期昭和15年8月1日 入隊先は298名が霞ヶ浦海軍航空隊

甲種飛行10期生
32期水戦10期生
山本二飛曹

甲飛10期生昭和17年4月1日 入隊先は1097名が三重土浦海軍航空隊

海軍少年飛行兵出身
乙飛練18期生
大空の後翼
蓮谷一飛
水戦35期生
東京出身

乙飛18期生昭和17年5月1日 1480名が土浦海軍航空隊

筑波に雲なし
赤トンボ
松本飛長
甲飛11期生
水戦隊13小隊32期
土浦海軍航空隊

32期水戦隊の
我等が同期生

甲飛11期生昭和17年10月1日 1191名が土浦三重海軍航空隊
松本飛長は土浦海軍飛行隊と明記有り

松崎昭三さん
昭和19年2月13日
三重海軍航空隊
乙種飛行隊科練習生
第21期
(舞●飛3005)
(海軍2等飛行兵)
松崎昭三

( )内は黒字消し

乙飛21期生昭和18年12月1日 4359名が三重鹿児島海軍航空隊
※松崎昭三さんは三重海軍航空隊と明記有り