【速報】日高報知新聞1面トップです!

  弟の源次郎さんです。

やっとアルバムをご遺族へとお返しすることが出来ました。

キセキ〜遺留品返還プロジェクト〜の名も大きく取り上げてもらい
有難うございました。

Web URL  http://www.hokkaido-nl.jp/article/12744

ネットの記事を読み終えた瞬間、深い溜息と涙と共に
全身の力が一瞬抜けたような不思議な感覚になりました。

良かった。もうこの一言です。

ホント、捜索するきっかけがあまりにも少なく
あっという間に1年が過ぎました。
情報の呼びかけに協力して頂いた、東奥日報様
山形新聞様、北海道新聞様、そして記事にしていただいた
日高報知新聞様、有難うございました。

心から感謝申し上げます。

太平洋戦争末期の激戦地だった南の島・サイパン島で、昭和19年(1944年)
夏に戦死した浦河町出身の旧日本兵の遺品が、70年以上の時を経て、米国から同町に住む遺族の弟のもとに返還された。遺品は本人の写真を含め、絵はがきやブロマイドなど約80枚を収めた写真帳。米国で遺留品の返還活動に取り組むジャガード千津子さん(67)=イリノイ州在住・愛知県出身=の諦めない情熱あふれる地道な活動が実った。

写真帳の持ち主は、浦河町井寒台出身の今光五郎さん(大正9年・1920年11月17日生まれ)。満州からサイパン島に配属替えとなり、昭和19年7月18日に
マリアナ諸島・サイパン島で亡くなっている。

この遺品を受け取ったのは、井寒台に住む弟の今源次郎さん(89)。
光五郎さんが最初の出征地の満州に赴いたのは源次郎さんが10歳ごろ
(昭和15年・1940年)で、「兄の姿を見たのはそれが最後だった」という。

この写真帳は、昭和20年(1945年)に元米海兵隊員のアール・パルマロさん(カンザス、昨年1月に93歳で死去)が持ち帰った。
遺産整理で娘のマーサ・ミックさん(フロリダ在住)が写真帳を見つけ、
ジャガードさんが所属している日本人の遺留品返還に取り組む在米日本人医師が主宰し米国と日本で日本人7人で活動している「キセキ遺留品返還プロジェクト」へ、遺族への返還依頼があり、これまで長い時間を費やし調べてきた。

写真帳や本人の写っている写真(5枚)に名前などの手掛かりになるものはなく、当初、青森県の弘前公園の絵はがきが多いことから、県紙の「東奥日報」に光五郎さんの写真とともに記事を掲載してもらい、知っている人はいないか呼び掛けたが、反応はなかった。

その後、戦友と映っている写真に北海道の帯広地方周辺に多い「小丹枝」の名を手掛かりに、ジャガードさんは昨年11月に来道。戦没者資料の多い旭川市の北海道護国神社などを訪ね、北海道新聞にも同様の記事を掲載。今源次郎さんは、新聞の写真を見て「兄に似てる」と直感し、江別市に住む長男の哲也さん(62)=江別市非常勤嘱託職員=に相談。哲也さんは同神社に「浦河町出身の叔父に似ている」と問い合わせている。

ジャガードさんによると、神社とのやり取りで「浦河町出身の可能性が高い」ということまでは判明したが、哲也さんが神社に伝えていた名前や連絡先などは神社側との行き違いでジャガードさんには伝わらなかったという。

調査先を浦河に絞り、役場経由で本社に同様の写真と記事の依頼があった。浦河町遺族会の事務局は町が担当しているが、資料は戦没者と遺族の名前のみで手掛かりはなかった。

記事掲載前に本社であれこれ探ったところ、町郷土博物館の伊藤昭和学芸員から浦河町史に戦没者の亡くなった場所や戦死月日など詳細な一覧があることを教えてもらい、所有者は今光五郎さんと判明。弟の源次郎さんが健在で、自宅には各新聞に掲載した写真と同じ顔の光五郎さんの写真も数枚所有していた。

米国の遺族からジャガードさん、本社経由で源次郎さんと駆け付けた哲也さんのもとに返還後、21日には僧侶を呼び、親族らで写真帳の供養も行っている。

源次郎さんは、年が10歳離れた兄が戦地で散った時に持っていたこの写真帳を万感の思いで見つめ、返還に尽力したジャガードさんにも「感謝の気持ちを伝えたい」と話している。

ジャガードさんは「目元が亡くなった父に似ていて、これまで光五郎さんの写真は何百回も見てきた」と振り返り、「満州からサイパン島に渡った写真帳が、1945年に米海兵隊員の手でアメリカに持っていかれ、昨年1月まで73年間、カンザスで眠っていた。それが、フロリダの娘さんの手に入り、今年、イリノイ経由で北海道まで旅をしました。若くして果てた兵士の遺品に多くのストーリーが詰まっていると感慨にふけっています」と話している。

 

朝日新聞(海外版)にも載りました。

http://www.asahi.com/ajw/articles/AJ201907240001.html

When Yasuhiko Kaji heard about someone seeking assistance in returning the photo album of a Japanese soldier found on Saipan to its original owner,
he “enlisted” in a repatriation effort of his own.

As many belongings of Imperial Japanese Army soldiers are sold at flea markets in the United States featuring military-related items, Kaji began purchasing a Hinomaru flag filled with farewell comments, a pocket notebook, picture and other keepsakes.

When the mementos bear the owners’ addresses or the names of their hometowns, he contacted their families to hand the items over. Some people who learned about his activities have even made donations over the years.

“If souls exist in this world, I would like them to return to their families along with their keepsakes,” said Kaji.

Kaji, a doctor from Mie Prefecture who lives in the United States, has been returning the personal possessions of Japanese soldiers killed in World War II to their bereaved families for half a century.

Kaji, 85, who resides in Ohio, began 50 years ago seeking the relatives of Japanese service members who died in the bloodiest battlefields in the war, so that their Hinomaru rising sun flag, letter, photo and other articles taken by U.S. military personnel can be repatriated.

Having a grandfather and father working as military doctors, Kaji enrolled in Nagoya University’s school of medicine, studied at a graduate school and then started working as a researcher at a U.S. college.

He later opened an obstetric clinic in the United States.

Around 1970, a woman who later became Kaji’s wife was asked by an American friend to help repatriate the photo album found on Saipan. That started Kaji on his long path to returning the wartime souvenirs brought back to the United States.

Kiyoshi Nishiha, a close high school friend of Kaji, opened a dedicated website around 2004 to assist in his efforts. More than 20 items collected by Kaji and shown on the site have been returned to their bereaved families.

After Nishiha died in 2010, his eldest daughter joined Kaji’s project according to the wishes of her late father. A friend of Kaji, who is a retired U.S. service member, also started assisting in the effort.

One of those new members, Chizuko Jaggard, now 67, who hails from Kariya, Aichi Prefecture, moved to Illinois after graduating from a university. She found a Hinomaru flag while sorting through the possessions five years ago of her late father-in-law, a former U.S. Marine.

Hoping to repatriate the flag, Jaggard contacted Kaji’s group, called Project Returned Memories Kiseki, through his site to join the activity. The group currently comprises Kaji and two others living in the United States and four people in Japan.

In November 2018, Jaggard visited Emi Nomura, 54, who lives in Yokohama, and her father, who resides in the Goto island chain off Nagasaki Prefecture. She had with her an old letter penned by Nomura’s uncle, Shigeo Yamaguchi, which is addressed to his supervisor at the company where he worked before going to the front.

Yamaguchi was killed in fighting in the Marianas in the western Pacific around July 1944, according to Nomura.

Reading the letter, Nomura felt that “my young uncle must have had many things he wanted to do after returning from the war.”

The returned missive was one of 11 letters found among the personal possessions of a deceased U.S. Marine in May last year.

Jaggard, who has also contributed articles to newspapers calling for the repatriation of mementos of the war dead, has been searching antique shops and estate sales for keepsakes of Japanese soldiers for five years. She is concerned about the decreasing number of bereaved family members over time.

She also said some younger bereaved relatives are not interested in their ancestors and are unwilling to accept their families’ keepsakes.

“I want to return mementos in a way that both recipients and senders will feel happy about,” Jaggard said.

For more details on the activity, contact Project Returned Memories Kiseki at (senso_ihin@outlook.jp)

この記事を拝読され、私達の返還活動に協力していただける方のために
連絡先も載せて頂きました、有難うございました。

本日の朝日新聞(夕刊)

私達の遺留品返還活動が朝日新聞に載りました。
返還活動を始めて、今年で50年目になります。
現在、返還に取り組んでいる多くのグループが
存在しますが、その中でも一番古い組織です。

これだけ長く続けていられるのは
慌てず急がずマイペースで
自然体の流れで活動出来ているからと
然程メンバーは多くありませんが
夫々の個人の持ち味や取り柄を生かせるよう
心掛けながら活動をしているからです。

しかし、終戦から74年経った現在の日本には戦争に出征され
若くして生命を落とされた青年達のご遺族も年々減ってきて
いるのも事実です。

今の私たちは当たり前かのように思っている、
目の前にある食物や飲料水
季節毎に変わる美しい山の景色や風景など、
全てが英霊達が守ってくれた貴重な宝です。

風化させずに後世に伝えていくことが私たちの
責務とも思っています。

朝日新聞さんからの転載の許可を得ましたので
此処に私達が今まで活動してきた記事を載せたいと思います。

この記事を担当されました小川様にお礼申し上げます。

有難うございました。

Web版

https://www.asahi.com/articles/DA3S14089272.html

 

太平洋戦争中の激戦地に残された日本兵の遺品。
日章旗や手紙、写真といったものが米軍兵士によって持ち帰られたが、
50年ほど前、遺品を持ち主の遺族らに返す取り組みが米国で始まった。
始めたのは米国に住む三重県出身の医師だ。
半世紀近い地道な活動はいま、新たなメンバーに引き継がれている。

昨年11月、横浜ログイン前の続き市の野村恵美さん(54)は、長崎・五島列島で暮らす
父親と一緒に1枚のはがきを受け取った。

はがきは、伯父の山口茂男さん(故人)が出征前に働いていた会社の上司に
宛てたもの。野村さんによると、山口さんは西太平洋のマリアナ諸島で
1944年7月ごろに戦死したという。はがきを目にして「若かった伯父は戦争から帰ったら、やりたいことがたくさんあったんだろう」と感じた。

野村さんを訪ねてはがきを届けたのは米イリノイ州に住むジャガード千津子さん5年前から日本兵の遺品返還に携わっている。はがきは昨年5月、元米海兵隊員の遺品を調べている中から出てきた11枚のうちの1枚だった。

ジャガードさんが加わる遺品返還活動は、米オハイオ州に住む加治安彦さん
が半世紀近くかけて築き上げてきたものだ。

加治さんは三重県出身で、祖父や父は軍医。
加治さんは名古屋大医学部に進み、大学院を経て米国の大学で研究員になった。その後、米国で産婦人科医院を開業した。

70年ごろ、後に加治さんの妻となる女性が、米国の知人から相談を受けた。
サイパン島から持ち帰られた旧日本兵の写真帳を持ち主に返したいという
話だった。

その出来事をきっかけに、軍装品のフリーマーケットで旧日本兵の遺品が多く
売り出されていることを、加治さんは知った。
寄せ書きされた日章旗や手帳、写真などを買い取り始めた。

住所や出身地がわかるものは、直接家族に連絡して返した。
加治さんの活動を知って寄付してくれる人もいた。
「もしも魂というものがあるならば、もう一度遺品と一緒に、
家族のもとに戻ってほしい」という気持ちだった。

2004年ごろ、高校時代の親友だった西羽潔さん(故人)が専用の
ホームページを制作。
加治さんが収集した遺品を掲載し、20点以上を遺族に返すことが
できたという。しかし、西羽さんは10年に亡くなった。

今度は、西羽さんの長女が父の遺志を継ぐように加わったほか、
加治さんの知人である米国の退役軍人らも参加してきた。
ジャガードさんも後に加わった一人だ。

愛知県刈谷市出身で、大学卒業後に米国に渡ったジャガードさん。
米海兵隊員の義父が亡くなり、5年前に遺品整理をしていて
見つけた日章旗を持ち主に返そうと思ったのが、
活動に加わったきっかけだった。
加治さんらのホームページを通じて、連絡をとった。

今、活動のメンバーは加治さんを含め米国に3人、日本に4人。ジャガードさん
は新聞に遺品返還を呼びかける記事を寄稿したり、古物商や遺産を売却処分する
エステートセール」などを回ったりしている。

ジャガードさんは「時間とともに遺族が少なくなっていく」と憂える。
世代によっては関心がなく、受け取りをためらう遺族もいるという。
「遺品を受け取る側と送る側が、ともに喜べる返還をしていきたい」

(小川崇)

私は一度も逢ったことがない亡くなられためぐみさんのお父様
まさか名前が全国紙に載るとはと、天国で「速報号外」が届いて
驚かれているのではないでしょうか。
私達の活動を暖かく見守っててくださいね。

判明です!

去年の春頃から捜索を始めた一冊のアルバムの
ご遺族が判明致しました。
アルバムには多くの写真があるものの情報がなく
なかなか手掛かりが掴めぬまま膠着状態が続き
捜索も難航し、東奥日報社や北海道新聞社に
協力を仰いだところ、叔父かもしれないという申し出があり
確認をして頂くために、新聞記事には載っていない他の写真を
見て頂き確認して頂きました

このアルバムは元米軍兵のご遺族からの依頼で捜索が
始まりました。
去年放送のNHKスペシャル「届かなかった手紙」にも
NHKの取材に応じて頂きました。
娘さんであるマーサさんの言葉がいつも頭に浮かびます。

「戦場で犠牲となった最期の言葉です」
「家族が受け取るべきだと思います」と。

マーサさんの優しい気持ちが伝わってきます。

これから先、遺品や形見などないと言われる
多くの日本兵のご遺族の為に橋渡しとなり
ご遺族との絆を結びつくよう活動して参ります

また、情報提供の呼びかけにご協力して頂いた
東奥日報社、北海道新聞社に心より感謝致します。
有難うございました。

 

74年ぶりに日本へ

以前、投稿しましたひとつの日章旗が現在
米国から日本へと戻られているところです。


日章旗返還を依頼されたザビンスキー夫妻です。


デイヴさんと返還活動に協力してくださっている
米国キセキ返還プロジェクト ジャガード・千津子さんです。

ジャガードさんは2016年11月に寄贈先である
函館市青函連絡船摩周丸へ立ち寄ったこともあります。

函館と青森を結ぶ連絡船として活躍した青函連絡船・摩周丸
館内では船長気分が楽しめる操舵室や無線室があり
連絡船の資料も展示されています。

今回、戦争を知らない私は多くの事を学ばされた日章旗となりました。
洞爺丸台風で1155人もの犠牲者を出し、それが交通手段の見直しの
きっかけともなり、天候に影響されず、安心・安全の輸送を目指し
国が1400億を投じられ北海道と本州を結ぶ青函トンネルの工事が
始まった。

青函トンネル工事の記録
https://www.youtube.com/watch?v=K1vwTo3_ze4

海難事故から60年以上過ぎた今でも校長先生の記憶として鮮明に残り
生徒たちへの教えとなっていること。
※賢明女子学院校長様、メール拝読しました、有難うございました。

洞爺丸に乗船していた宣教師であるディーン・リーパーさんは
海難死する直前に、混乱する乗客を手品で和ませたりして、
日本人の子供に自分の救命胴衣を着させ犠牲となり、
子供が生き残ったことや息子さんのスティーブン・リーパーさんは
広島平和文化センターの理事長を就任されたこと。

寄贈先となる函館市青函連絡船摩周丸のご担当者からは

●青函連絡船乗組員は「戦地に赴くことはまずない=戦死することはない」
と思っていた。
●しかし、船員も召集されるようになってしまった
●山田さんのような高級船員(商船学校卒)は、もともと海軍予備士官・
下士官で、軍事訓練も受けていた。
●連絡船乗組員が出征する(あるいは召集される)ことになったので、
みんなで寄せ書きをしたのではないか
●戦争末期には青函連絡船も空襲され、全滅した。

と、詳しく教えて頂きました。

この日章旗には第七青函丸や飛鸞丸とも署名がありますので
同僚の仲間の署名が濃厚で、昭和20年7月14日2隻とも
空襲を受けたという記録がありました。

なぜ、ここまで青函連絡船が米軍に狙われたのか、
それは石炭輸送という大動脈を断ち切る為でした。

また、北海道テレビ報道部の方からは署名されている
山田友二さんの件でお問い合わせしたところ
当時91歳で、ご存命であると知らせを受け

更には遡ること30年程前のNHKが制作された番組でしょうか。
(青函連絡船終航の際、制作されたと説明欄に有り)
山田友二さんが番組に出演されているの見つけました。
青函連絡船 栄光の奇跡 1時間02分過ぎから七重浜を歩いている
山田さんが登場し、洞爺丸台風について語られています。
https://www.youtube.com/watch?v=wJZwUJDHR20&t=2180s

その後、山田友二さんは青函連絡船摩周丸の船長ともなりました。
山田友二さんは「孫の世代に北海道と本州を結ぶ大動脈として
活躍した連絡船を伝えたい」と話している。

まさにこの日章旗は他の日章旗とは異なり
私たちの世代に伝えなければならない歴史的価値が有る
日章旗だと思います。

山田友二さんは現在93歳で今年2月4日〜8日まで
北海道新聞に「私のなかの歴史」と題し、掲載されていました。





この記事のおかげで寄贈された日章旗が
いつ頃署名されたのかまで解りました。

新聞記事にはこのように書かれています。
1944年4月、国策で運航されていた青函連絡船への勤務が命じられました」
「配属は飛鸞丸3等航海士、まだ19歳という若さでした」
9ケ月後には第八青函丸2等航海士に任命されました」

日章旗には 飛鸞丸 三運 山田友二と署名されております。
よって、この日章旗は1994年4月から1995年1月までの9ケ月間
なります。山田さんはまだ未成年だった頃かもしれません。

海難事故後は何かとご足労されたと思います。
今だからこそ言える生き証人として
これからも健康で長生きしてほしいものです。

返還にご協力して下さった
北海道テレビ報道部様
函館市青函連絡船摩周丸様
賢明女子学院校長様

そして何よりもザビンスキー夫妻とデイブ様に
心より深く感謝致します。

6名の少年飛行兵達

現在、6名の少年飛行兵達のご遺族捜しが難航しています。

予科練資料館などにある資料で人数が絞り込める程度の状態
また、私自身が予科練に対する知識が無いというのも理由のひとつ。

どうにかして、写真をご遺族の元へとお返ししたい。

そこで、この記事を読まれた方にお願いがあります。
6名の写真と裏側に書いてある名前などを此処に載せますので
何かご存知な方や詳しい方、情報がございましたら
senso_ihin@outlook.jpまでお願い致します。


百里原航空隊
甲練九期生
関矢 二飛曹

甲練九期生昭和16年10月1日入隊先は851名が土浦海軍航空隊

乙飛14期生
児島飛行兵長

雲染や
何処の空を今頃は
思い出の君

乙飛14期昭和15年8月1日 入隊先は298名が霞ヶ浦海軍航空隊

甲種飛行10期生
32期水戦10期生
山本二飛曹

甲飛10期生昭和17年4月1日 入隊先は1097名が三重土浦海軍航空隊

海軍少年飛行兵出身
乙飛練18期生
大空の後翼
蓮谷一飛
水戦35期生
東京出身

乙飛18期生昭和17年5月1日 1480名が土浦海軍航空隊

筑波に雲なし
赤トンボ
松本飛長
甲飛11期生
水戦隊13小隊32期
土浦海軍航空隊

32期水戦隊の
我等が同期生

甲飛11期生昭和17年10月1日 1191名が土浦三重海軍航空隊
松本飛長は土浦海軍飛行隊と明記有り

松崎昭三さん
昭和19年2月13日
三重海軍航空隊
乙種飛行隊科練習生
第21期
(舞●飛3005)
(海軍2等飛行兵)
松崎昭三

( )内は黒字消し

乙飛21期生昭和18年12月1日 4359名が三重鹿児島海軍航空隊
※松崎昭三さんは三重海軍航空隊と明記有り

 

一枚の日章旗の物語


この日章旗は悲劇もあれば感動もありで
何かと驚かされた日章旗でもありました。

アメリカのデイブ・ザビンスキー
様からの依頼で
太平洋侵攻作戦に参加された父親が持ち帰えられ
亡くなる前にぜひお前から日本へ返還して欲しいと
長男のデイブ様に遺言された日章旗。

去年の6月初旬から捜索を始め、まず最初に驚いたのは
1人の署名者が、死者・行方不明者あわせて1155人に及ぶ
日本海難史上最大の惨事となった洞爺丸の船員だったということ。
山田友二さんが北海道テレビの取材に応じている動画を偶然見つけ
私は北海道テレビ報道部へ事情を説明し聞いてみたところ、
日章旗に署名した本人に間違いないとのご返答を頂きました。
【朝日新聞×HTB 北海道150年 あなたと選ぶ重大ニュース】
青函連絡船の2つの悲劇
https://www.youtube.com/watch?v=2Fn-22uht2M&t=398s
(※05:25過ぎから山田友二さんが登場致します)

また、山田さん曰く「樋坂は私より先輩だった」とのことでした。
懐かしいということはお話されていたそうです。
北海道テレビ報道部の皆さん、ご協力有難うございました。


至誠 飛鷹丸 三運 山田友二と署名有り


北海道テレビの取材に応じる山田友二さん


洞爺丸台風は全国紙1面に大きく載っていました。

洞爺丸台風のニュース

https://www.youtube.com/watch?v=P4UKFGXlGVc


山田さんは洞爺丸の船長の代わりに
海難審判へも出席されていました。

当時は船長の過失によって事故が起きたと
報じられましたが、山田さんは今でも
「人知及ばぬ自然の力」だと訴え続けています。
1920年代当時の気象予報は現在のものほど
正確ではありませんでした、台風の動きなどが
予想出来ず誤った判断による海難事故が
多発していた時代でもあります。
なので、船長の過失な判断が原因という裁決は
あまりにも酷かと思うところがあります。

この日章旗にはもう一人重要な署名がありました。
それは当時「船長の判断」によって明暗を分けたと
されている羊蹄丸の船長、佐藤昌亮大尉の署名です。

羊蹄丸の佐藤船長は「本船はテケミする」
※「テケミ」とは「天候険悪出港見合わせ」の略語です。
と、出航しなかった為、台風の難を逃れました。
この事は、賢明女子学院の校長先生のブログに
書かれています。
ちょうど捜索が始まった月に、新規更新をされ
羊蹄丸の佐藤昌亮船長とまで書かれていたのを
見つけた瞬間、鳥肌が立ちました。
校長先生のブログを読んで佐藤昌亮大尉が
羊蹄丸の船長だと判明したのです。
https://himejikenmei.ac.jp/wordpress/?p=13876

難を逃れた羊蹄丸船長 佐藤昌亮さんの署名
洞爺丸台風で多くの命を失われた中
かろうじて生き残った洞爺丸乗組員の署名

この2名が一枚の日章旗に署名されているのは
恐らくこの一枚だけでしょう。

もし羊蹄丸も出航されていたら海難審判も
山田さんが仰る通り、「人知及ばぬ自然の力」と
裁決されていたかもしれません。

また、捜索を続けていると、宣教師である
ディーン・リーパーさんが洞爺丸に乗船をしており
救命具のない学生を見つけ「あなたの前途は長いから」
と言って、自らの命を投げ出し救命具を譲ったそうです。

STVラジオ「北海道100年物語」で語られています。
https://youtu.be/uZV3iiIcIOM

事件後、日本経済新聞は、救命具を譲り
乗客を励ましながら亡くなられた2人の宣教師を
「北海に散った外人宣教師」の見出しで報じられています。
またご子息であるスティーブン・リーパーさんは
米国人として初の広島平和文化センター理事長に就任され
乗客を励ました父 誇りに思うと北海道新聞に載っていました。

今でも海難事故があった北斗市では、あの時の悲惨な海難事故を
風化せぬよう、供養が行われています。
https://www.youtube.com/watch?v=ZYjYg6yzNTI

こうして多くの歴史がある日章旗が74年経過した今
日本へ戻られようとしています。

この日章旗は函館市青函連絡船摩周丸博物館へ寄贈される予定です。

日章旗に署名されている名前や言葉

樋坂泰助君入営
大勇 小見山
負けるな 升崎
玉砕
海軍大尉 佐藤昌亮(※羊蹄丸船長)

大義
勇戦奮闘
斃而不己 第七青函丸
飛鳥神社
氣比神社
至誅

至誠 飛鸞丸 三運 山田友二(※洞爺丸船員)
忠誠 飛鸞丸 二運 小坂
必滅洋鬼 飛鸞 一運 佐藤

不知身惜命
東出房吉

忠孝
小林
忠君愛國
飯田栄太郎
義烈
川端七之助
剛気貫山
第七青函丸
伊勢
精誠
村上興三郎
何ニ糞ノ精神忘れるな
中村武男
勇戦奮斗

立間

本日の沖縄タイムス/Yahooに載りました

「昭和十一年一月 宇栄原キミヨ」さんの写真
持ち主探してます 元米兵の遺品から見つかる」


2019年2月9日 05:00

 太平洋戦争に従軍し、昨年1月に亡くなった元海兵隊員の遺品から、沖縄県出身者と思われる家族の写真など6枚見つかった。写真館で撮られたと思われる家族写真や小学校の集合写真などで、写っている少女の3歳~小学生ごろまでの成長が確認できる。米兵が戦地から持ち帰った遺留品を遺族に返す活動をしている米国のボランティア団体「キセキ遺留品返還プロジェクト」は、「写真に写っている少女は存命の可能性もある。家族に返したい」と情報提供を呼び掛けている。(社会部・吉川毅)

沖縄タイムス
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/383136

Yahoo
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190209-00383136-okinawat-oki

沖縄タイムス

従軍日誌

捜索は組織表が載っている従軍日誌をよく見るようにしています。
出征された時期や出身地、所属された軍隊名等を特定出来れば
絞れることもできるからです。
それにはかなりの時間を必要とされますが何かしらの
きっかけがひとつでも見つかれば、今まで全く動かなかったことも
ご遺族捜しへ解決へと一気に展開が変わっていきます。

また従軍日誌とは全く異なった、個人的な日記もあります。
今日、ご紹介するのは私のお気に入りの一冊です。
これは高知から出征された父親が遠く離れた戦地から
愛するお子さんへの想いを日々綴られた日記です。

1957年米兵がニューギニアの戦場で日本兵であった
父の亡骸から日記を見つけ、それを日本のご遺族に返還され
アメリカのリーダーズ・ダイジェストにも取り上げられました。

日本語版では、アメリカは案外に近かった!/倉橋 睦
と、娘さんの名前が載っています。

1957年、1月20日付のThe Indianapolis Starにも掲載され
当時かなり有名なエピソードだったそうです。

中にはこの本を読まれ感動しギリシャ語に翻訳し出版もされた方や
ネットでは、2003年出版のChristina Klein 著
”Cold War Orientalism, Asia in the Middlebrow Imagination, 1945-1961”
この論文に睦さんの父上の日記のエピソードが引用されてもいます

「America Seems Near to Me Now」
Asia in the Middlebrow Imagination, 1945-1961 Christina Klein.
them to put the ideal of international commitment into practice.
In 1957, for instance,
Reader’s Digest published an article that invited readers to cultivate
mutual understanding between the U.S. and Japan.
“America Seems Near to Me Now,”
a first-person story written by Mutsumi Kurahashi,
told how a former GI had brought her family great peace of mind
— and good feelings toward the United States — when he returned …

日記はあるアメリカ兵が戦利品として持ち帰り、戦後の昭和31年
大方町のご遺族のもとに届けられました。
高知新聞連載「祖父たちの戦争」(南海支隊の生き残り兵士の記録)
にも載りました。
https://www.kochinews.co.jp/article/164093/
※読まれるには会員登録(無料)が必要

そのお父さんの日記を自費出版したのが娘さんの花井 睦さん。
花井 睦さん編「父が残した戦場日記 ニューギニアから故郷土佐へ」
滅多に本を購入しない私が大切にしている本です。

第59回「高知県出版文化賞」を受賞されています。

2013年8月25日放送の24時間テレビ では
http://www.ntv.co.jp/24h/history/36.html
「日本人18万人が命を落とした戦場 生涯をかけて守った友との約束」

オーストラリアの学校で教材にもなっているという西村幸吉さん宅に
相葉雅紀さんがお訪れ、太平洋戦争のニューギニアの戦いに出征した
西村さんは半年間戦い続けた。
2ヶ月分の食料しか持って行かなかった日本兵は飢えとの戦いにも苦しみ、
西村さんは出兵当時73キロあった体重が帰国時には28キロしかなかったという。
西村さんの戦友・倉橋一美さんの娘の睦さんが毎年行われるパプアニューギニアで行われる慰霊祭に参加していた。
戦後、一美さんの日記が睦さんに届けられ父の思いを知ることができたという。
そして最後の日記に「子ども見たし」と綴った一美さんは、帰らぬ人となった。

戦場という過酷な地でも、息絶えるまでお子さんの事を想い綴った日記です。