野田一さんの帽子、親族が見つかりました。

厚労省より本日連絡があり、野田一さんのご親族が見つかりました。

この帽子は、4月にコレクターより直接購入し4月15日に厚労省に
調査を依頼していました。

これからFEDEXで厚労省に送ります!

入籍番号 佐徴機二二六六三一
氏名 野田 一
交付年月 昭和十六年十一月
佐世保軍需部

 

鈴鹿市庄野町について。


                                              手帳には庄野町六丁目

Twitterに庄野町について、情報をコメントをしてくれた方がいました
手帳には庄野町六丁目と書かれてますが、庄野町は番地制なので
六番地ではないでしょうかといったコメントです。
鈴鹿市公式サイトには、昭和48年からの鈴鹿市住居表示町名一覧表が
載っており、H2年に庄野町が載ってますが
旧町名と新町名変更無しでした。

https://www.city.suzuka.lg.jp/kouhou/gyosei/plan/zyukyo/pdf/09.pdf

いくら庄野町六丁目と検索してもヒットしなかったので
私はてっきりH2年の変更以前に六丁目が他の地域と吸収合併され
変更されているものと勘違いし続け、一覧表に初めて表示された
昭和48年以前の鈴鹿市庄野町の住居表示変更の情報を捜し続けてました

それが、今回のコメントで見つからない理由が解りました。


ストリートビューで鈴鹿市庄野町6と検索すると
東海道五十三次の45番目の宿である庄野宿の石碑が
すぐ近くにある歴史ある場所で、この近くにお住まいだったようです。

庄野宿のこと、知りませんでした・・・スミマセン。

もし、この地域にお住まいで76年前の状況を知っていたら
教えてほしいです。

硫黄島からの手帳の捜索

Japanese war diary could find its way home

今日も硫黄島に出征された清水實さんを調べてました。
戦史資料があるサイトを検索したところ
良い資料が見つかりました。

硫黄島警備隊千鳥十二糎高角砲台 第二分隊
資料に清水 實さんが載っていました。

硫黄島 三番高射砲担当
兵籍番号 呉徴水六四二五六です。

ネット上で兵籍番号まで判明することは
あまりないのでこの収穫は大きいです。

 

日記に書かれているのと、今日収穫した情報をまとめると

住所:三重県鈴鹿市庄野町六丁目
名前:清水 實
兵籍番号:呉徴水六四二五六
所轄硫黄島警備隊千鳥十二糎高角砲台 第二分隊  三番高射砲

また、今日新たに写真を送ってきてくれました。


戦線日記 海軍上等兵 清水 九月拾一日
晴天 本日敵機ノ来襲ナリ●戦車配置ニツク事
等々書かれてます

戦時中の硫黄島の砲台位置(S19年11月15日)

今、私が知りたいのは昭和20年に三重県鈴鹿市庄野町六丁目だった
住所が現住所だと何処にあたるのか知りたいです。
鈴鹿市の地名変更の書類を見ましたが、昭和48年からの変更しか
載っていませんでした。

https://www.city.suzuka.lg.jp/kouhou/gyosei/plan/zyukyo/pdf/09.pdf

【追記有り】羽田精機社員の日章旗

 

大河原寿さんの日章旗

羽田精機株式会社と署名されています。

署名されている方々を見ると、為書きされた「大河原」の姓に署名がなく
女性の署名も多いことから、羽田精機に勤務されていた社員達の
署名ではないかと思われます。

追加報告です!(2021.4.14)

羽田精機から出征されたと思われる日章旗 厚労省から
ご遺族が見つかったとの連絡がありました!
また龍ヶ崎市歴史民俗資料館からは、この日章旗には 昭和16年当時の
羽田精機の社長と秘書と外註の3名の 署名が確認出来るとの情報も頂きました。 ありがとうございました!

2019年7月31日 日高報知新聞


日高報知新聞1面トップです!

74年ぶりに米国から写真が弟の元に

http://www.hokkaido-nl.jp/article/12744

 

太平洋戦争末期の激戦地だった南の島・サイパン島で、昭和19年(1944年)夏に戦死した浦河町出身の旧日本兵の遺品が、70年以上の時を経て、米国から同町に住む遺族の弟のもとに返還された。遺品は本人の写真を含め、絵はがきやブロマイドなど約80枚を収めた写真帳。米国で遺留品の返還活動に取り組むジャガード千津子さん(67)=イリノイ州在住・愛知県出身=の諦めない情熱あふれる地道な活動が実った。

写真帳の持ち主は、浦河町井寒台出身の今光五郎さん(大正9年・1920年11月17日生まれ)。満州からサイパン島に配属替えとなり、昭和19年7月18日にマリアナ諸島・サイパン島で亡くなっている。

写真帳に収められている兵士の写真。右が光五郎さん

この遺品を受け取ったのは、井寒台に住む弟の今源次郎さん(89)。光五郎さんが最初の出征地の満州に赴いたのは源次郎さんが10歳ごろ(昭和15年・1940年)で、「兄の姿を見たのはそれが最後だった」という。

この写真帳は、昭和20年(1945年)に元米海兵隊員のアール・パルマロさん(カンザス、昨年1月に93歳で死去)が持ち帰った。遺産整理で娘のマーサー・ミックさん(フロリダ在住)が写真帳を見つけ、ジャガードさんが所属している日本人の遺留品返還に取り組む在米日本人医師が主宰し米国と日本で日本人7人で活動している「キセキ遺留品返還プロジェクト」へ、遺族への返還依頼があり、これまで長い時間を費やし調べてきた。

写真帳や本人の写っている写真(5枚)に名前などの手掛かりになるものはなく、当初、青森県の弘前公園の絵はがきが多いことから、県紙の「東奥日報」に光五郎さんの写真とともに記事を掲載してもらい、知っている人はいないか呼び掛けたが、反応はなかった。

その後、戦友と映っている写真に北海道の帯広地方周辺に多い「小丹枝」の名を手掛かりに、ジャガードさんは昨年11月に来道。戦没者資料の多い旭川市の北海道護国神社などを訪ね、北海道新聞にも同様の記事を掲載。今源次郎さんは、新聞の写真を見て「兄に似てる」と直感し、江別市に住む長男の哲也さん(62)=江別市非常勤嘱託職員=に相談。哲也さんは同神社に「浦河町出身の叔父に似ている」と問い合わせている。

ジャガードさんによると、神社とのやり取りで「浦河町出身の可能性が高い」ということまでは判明したが、哲也さんが神社に伝えていた名前や連絡先などは神社側との行き違いでジャガードさんには伝わらなかったという。

調査先を浦河に絞り、役場経由で本社に同様の写真と記事の依頼があった。浦河町遺族会の事務局は町が担当しているが、資料は戦没者と遺族の名前のみで手掛かりはなかった。

記事掲載前に本社であれこれ探ったところ、町郷土博物館の伊藤昭和学芸員から浦河町史に戦没者の亡くなった場所や戦死月日など詳細な一覧があることを教えてもらい、所有者は今光五郎さんと判明。弟の源次郎さんが健在で、自宅には各新聞に掲載した写真と同じ顔の光五郎さんの写真も数枚所有していた。

米国の遺族からジャガードさん、本社経由で源次郎さんと駆け付けた哲也さんのもとに返還後、21日には僧侶を呼び、親族らで写真帳の供養も行っている。

源次郎さんは、年が10歳離れた兄が戦地で散った時に持っていたこの写真帳を万感の思いで見つめ、返還に尽力したジャガードさんにも「感謝の気持ちを伝えたい」と話している。

ジャガードさんは「目元が亡くなった父に似ていて、これまで光五郎さんの写真は何百回も見てきた」と振り返り、「満州からサイパン島に渡った写真帳が、1945年に米海兵隊員の手でアメリカに持っていかれ、昨年1月まで73年間、カンザスで眠っていた。それが、フロリダの娘さんの手に入り、今年、イリノイ経由で北海道まで旅をしました。若くして果てた兵士の遺品に多くのストーリーが詰まっていると感慨にふけっています」と話している。

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キセキという名のもとに

私達の活動名は「キセキ」としている
カタカナにしたのは、74年もの間世界へと旅立った遺留品が
ご遺族の元へと返還出来る奇跡が起きる「キセキ」であり
出征された一人の兵士の軌跡の「キセキ」でもある。

奇跡と呼ぶのはたやすい、だが奇跡は一度だからこそ
奇跡であり、二度起これば奇跡ではない

その奇跡をご遺族への橋渡し役となるのが
私達の役目だと自分は思っている。
これも軌跡のヒトカケラでもある。
私事になりますが、自分は19歳の頃から浜田省吾が好きで
もうかれこれ36年目になります。
本日シングルで発売開始された「凱旋門」
彼は広島生まれで戦争を語るように奏でるヒトで

そしてお父様が警察官で被爆者でもある。

この曲の歌詞には兵士と入っている。

発売日が本日9月4日
74年前の月日と合わせているのだと思う。
なぜかというとこの曲の詩にはこう書かれてる。

戦い疲れた兵士が今
帰ってきたよ、帰ってきたよ。

9月2日は東京湾に停泊した戦艦ミズーリ号での
降伏文書調印式をされた日= 終戦

その2日後に発売日

凱旋門

もう少し傍にいて
幾つもの夜を
ひとりきり過ごしてきた
ぬくもり ほほえみ
頬にかかる甘い吐息

愛はいつも悲しみだけを
君のもとに 残してきたけど
もう泣かないで 僕は君だけのもの

別れたあの時と
同じように今夜
窓の外 静かな雨
いつでもポケットに
君の写真 抱いて寝たよ

人はいつも 失くしたものの
重さだけを 背負ってゆくけど
もう離さない 君は僕だけのもの

戦い疲れた兵士が今
帰って来たよ 帰って来たよ

愛はいつも悲しみだけを
君のもとに 残してきたけど

人はいつも 失くしたものの
重さだけを 背負ってゆくけど

愛はいつも悲しみだけを
君のもとに 残してきたけど…

私の好きな一曲です。

今、自分が思うこと。
一言でいいつくす言葉のキセキが私にはほしい。

 

 

2019年1月

2019年、新年を迎えはや9日が過ぎました。
去年は多くの遺留品をご遺族へ直接お渡しする事が出来ました。

また、NHKスペシャル・京都新聞・東奥日報・岐阜新聞
北海道新聞・山形新聞とメディア関係にも
キセキの遺留品返還活動記事や、ご遺族へ返還する際に
撮影されたご遺族、そして関係者の方々の素敵な笑顔が
載っているのを拝見し、捜索する遣り甲斐を感じます。

今年も国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊に対し
哀悼の誠を捧げるとともに、私達に託されている遺留品を
返還出来るよう心掛けます。

遺留品は戦地で兵士が身につけているもの全てが遺留品です。
返還には難しい遺留品もありますが、避けて通る訳にはいきません。
少しの情報でも、返還が可能な限り、これからも捜索して参ります。
私達が今までご遺族へ返還してきた遺留品の数々は以下の通りです。
・日章旗
・手紙
・日記
・アルバム・写真
・貴重品袋
・手旗信号法
・水平服
・船長の印鑑
・黒帯
・軍事郵便貯金帳
・千人針
・貯金通帳
・軍隊手帳
・万年筆
・補充兵手牒
・従軍手帖
・軍隊手牒
・はがき
・青年学校手帳

他に軍刀や鉄兜などもあります(これはまだ未返還です)

今の日本の平和と繁栄は、現代を生きている私達だけで
成り立っているのではなく、若くして戦場で犠牲となった
御英霊がいてこそです。
ひとつでもご遺族に返還したい、それは身に付けているものであれば
全てがご遺族にとって、形見となり貴重なものです。

ふと、夜空を見上げれば、そこは今を生きる祈りを捧げる場と変わり
ご遺族へ遺留品が届けば、そこは御英霊とご遺族の特別な場と変わります。
その天と地の道を繋ぐのが、キセキ遺留品返還プロジェクトの役割です。