ご遺族判明しました。

手帳のご遺族判明で(内々に済ませたいとのこと)日本へ返還予定です
Web上で多大な協力を頂きましたので、お礼だけさせてください。

Japanese war diary could find its way home

 

2015年12月8日の記事を削除せず、載せ続けてくれたOak Parkサイト
(全てはこのサイトから始まりました)
日本語翻訳のお手伝いをしてくださったYokoさん
そして何よりも日本のご遺族への返還希望を持ち続けた
軍医の娘さんでもあるWendyさん。
あなたたちのWeb上での働きかけがなければ
日本のご遺族へお渡しすることが出来ませんでした。

また、捜索中の私へのアドバイスをしてくださった方々の
コメントも助かりました。

心より感謝します、ありがとうございました。

そして、私達は次の日本へ帰還出来るかもしれない遺留品に
既に取り組んでいます!

三重県遺族会へお願いしました。

Japanese war diary could find its way home

 

清水 實さんは、硫黄島の何処ら辺で戦っていたのだろうと思い
今日も検索しまくってたらありました。

「十二糎高角砲配置表」の書類に清水實さんが載っていました。
※書類には名前が稔と書かれていますが兵籍番号が實さんの
呉徴水六四二五六なので書類のほうが誤字です。


十二糎高角砲台 (摺鉢山交代ニヨル)と書かれてます。

 

硫黄島空中写真測図要図  1万分1 昭和19年測図です。
摺鉢山の近くに高射砲陣地が2つあります。
そのうちのどちらかの三番高射砲で戦われていたようです。

また、一緒に捜索に協力してくれているスタッフが
鈴鹿市にお住まいの清水さんにお問い合わせしたところ
残念ながら不発でした。
おそらくこれ以上の情報を得ることは出来ないだろうと思い

手帳以外の収集した情報を含め、三重県の遺族会へと託しました。

住所:三重県鈴鹿市庄野町六丁目
氏名:清水 實
配属:硫黄島警備隊千鳥十二糎高角砲台 第二分隊
三番高射砲 担当
兵籍番号: 呉徴水六四二五六
日記に「田津子」の名前有り

天皇の為に硫黄島の土となるのは惜しまないと
書かれたこの手帳を、實さんの分身となって
日本へと帰還し、土を踏ませてあげたい

そんな気持ちです。

硫黄島からの日本兵の日記を返還したい!

 

一昨日、ネットサーフィンをしていたら、硫黄島へ出征した日本兵の
日記の返還を望む女性の記事に辿り着きました。

Japanese war diary could find its way home

シカゴ領事館へ依頼したが親族を捜すことが
出来なかったという返答だったそうです。


三重県鈴鹿市庄野町六丁目 海軍上等水兵 清水 實と読み取れる。

日記は軍事訓練を受けていた1938年に始まり
1945年2月17日で終わっている。

そこで、何とか返還させてあげたい気持ちになり
コンタクトを取ってみました。


配属
硫黄島警備隊千島十二糎高角砲

㐧二米臼砲海軍上等水兵 清水 實

私達で暫く捜索してみようと思います。

硫黄島からの遺留品

これは個人でご遺族を捜している方が所持されている「俸給支払証票」
厚労省へ依頼もしたが、捜索対象外という返事だったとのこと。

見る限り、特定出来そうだけどどういう基準で対象外になったのか
私には解らない。

詳しい人の意見も聞かせてもらいながら少し調べてみた。

ここに出てくる苗字は安荘・柳・内田・そして佐藤。
これだけ揃っていればネット上でも情報は得られる。

第145連隊
指揮官 池田 増雄 大佐
総員  2,727名
戦死  2,565名
生還    162名
出身地 大部分:鹿児島 外:九州各県

第3大隊長     安荘 憲瓏 少佐
同 7中隊     柳 義明 中尉
同 8中隊     長瀬 三男 中尉
同 9中隊     木下 一雄 中尉
同 歩兵砲中隊   益山 薩雄 中尉
独立歩兵第309大隊 粟津 勝太郎 大尉
独立速射砲第11大隊 野手 保次 大尉
同 第2中隊    金井 正人 中尉

安荘部隊は第145連隊大3大隊長 安荘憲瓏 少佐
柳隊は第7中隊の柳 義明中尉
内田千秋陸軍軍曹は主計係
そしてこの俸給支払証票は佐藤正秀上等兵のもの。

結論:第145連隊第3大隊第7中隊 の上等兵佐藤正秀さんの俸給支払証票

鹿児島県の遺族会にも照会してもらったが該当者がいなかったとのこと。

暫く調べ続けていると、今年4月19日の琉球新報にこんな記事が載っていた。

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-902199.html?fbclid=IwAR25YTydN4dTz4X_3kxD1gEZcAB4TdHTmmq4tjZKCnZbkMIlt0Qs0YKi45c

硫黄島の地上戦で亡くなった日本兵約2万2千人の中には沖縄出身者もいた。厚生労働省によると、都道府県の出身別の戦没者数に関する統計は取っていないという。ただ、硫黄島の戦没者遺族らでつくる「硫黄島協会」が保管する戦没者名簿には、100人以上の沖縄出身者の名前がある。

硫黄島協会の安荘正憲副会長(84)=横浜市=は鹿児島県出身で
父の憲瓏(けんりゅう)さんが硫黄島で戦死した。
憲瓏さんがいた陸軍歩兵第145連隊(約2700人)は大半が鹿児島の
志願兵だったが、そこには沖縄出身者も多くいた。
隊で生還したのは1割にも満たず、
安荘さんは「沖縄の方も状況は同じだったんでしょう」と語る。
遺族の高齢化が進み、今では沖縄の遺族との交流も途絶えているという。

硫黄島協会の副会長さんが第3大隊長 安荘 憲瓏 少佐の実の息子さん!!

このことを知らせると、既にコンタクト済で安荘さんから鹿児島県遺族会へ
仲介してくれたのだという。

硫黄島協会関係者であれば非売品の「硫黄島のあゆみ」を見れば解るのに。
あれには硫黄島で亡くなられた英霊達の名が載っているとても貴重な本
私が喉から手が出るほど欲しいと思っているものでもある。
まぁ、鹿児島県遺族会から該当者なしだとすると、沖縄県出身かもしれない
もしくは九州の他県か。

もうこの遺留品は目と鼻の先まで来ていると思う。

2015年の東京新聞にも載っていました。

安荘(あんしょう)正憲さん(80)=横浜市磯子区=の父憲瓏(けんりゅう)さんの遺骨は九八年、千鳥ケ淵戦没者墓苑に納められていると分かった。遺骨の発見は八六年。十二年がたって偶然、記録や証言との照合ができ、身元が明らかになった。しかし、すでにほかの身元不明の遺骨とともに墓苑で眠り、父の遺骨だけ取り出すことはできない。「母と同じお墓に入れてあげられれば良かった。もうどうしようもない」と嘆く。

https://www.tokyo-np.co.jp/hold/2015/Postwar70th/dengon70th/CK2015021502100004.html

安荘正憲さんが父親である安荘憲瓏 少佐のことを語られています。