三重県遺族会へお願いしました。

Japanese war diary could find its way home

 

清水 實さんは、硫黄島の何処ら辺で戦っていたのだろうと思い
今日も検索しまくってたらありました。

「十二糎高角砲配置表」の書類に清水實さんが載っていました。
※書類には名前が稔と書かれていますが兵籍番号が實さんの
呉徴水六四二五六なので書類のほうが誤字です。


十二糎高角砲台 (摺鉢山交代ニヨル)と書かれてます。

 

硫黄島空中写真測図要図  1万分1 昭和19年測図です。
摺鉢山の近くに高射砲陣地が2つあります。
そのうちのどちらかの三番高射砲で戦われていたようです。

また、一緒に捜索に協力してくれているスタッフが
鈴鹿市にお住まいの清水さんにお問い合わせしたところ
残念ながら不発でした。
おそらくこれ以上の情報を得ることは出来ないだろうと思い

手帳以外の収集した情報を含め、三重県の遺族会へと託しました。

住所:三重県鈴鹿市庄野町六丁目
氏名:清水 實
配属:硫黄島警備隊千鳥十二糎高角砲台 第二分隊
三番高射砲 担当
兵籍番号: 呉徴水六四二五六
日記に「田津子」の名前有り

天皇の為に硫黄島の土となるのは惜しまないと
書かれたこの手帳を、實さんの分身となって
日本へと帰還し、土を踏ませてあげたい

そんな気持ちです。

長谷伊三郎さんの日章旗

新しく日章旗の返還依頼がありました。
依頼主の義理の父がペンシルバニア州の在郷軍人会で知人から預かった
日章旗だそうで、沖縄から持ち帰ったとのことです。

日章旗を見ると、長谷伊三郎さんのご家族・親族と思われる署名が
多く見られます。

 

2018年11月10日 京都新聞

日中戦争で出征されたお父様の戦友や戦傷病者の返還を続けている
京都市在住の田尻さんと面会されました。
今後、私達と情報交換をしながら返還活動して頂く事になりました。

2009年8月7日 毎日新聞

2009年8月7日に毎日新聞に私達の活動が掲載されました。

「旧日本兵の遺品を返還」

遺骨や遺品もないご遺族が多くいる、その人達を何とかしてあげたい。
「遺品が返ってきたとき、遺族が感激している様子がよく解る
それが僕の。生き甲斐」

「遺族の心を癒したい」

今は亡き、西羽潔様の遺品返還に対しての情熱が伝わる言葉です。

私自身もそのキモチを大切に1人でも多くのご遺族へ返還出来るよう
取り組んでまいります

2006年7月11日 日本経済新聞

2006年7月11日付けの日本経済新聞に
軍事手紙に関する記事が掲載されました。

個人情報保護法は2003年5月に成立し
2年後の2005年に全面施行されました。
出征された多くの兵士のご遺族が形見がなく
遺品をお返ししたいだけなのですが
制定された以上、法律は守らなければいけません。
捜索するにあたっては非常に高い壁が出来てしまいました。

東奥日報Web記事です!

https://www.toonippo.co.jp/articles/-/234592

東奥日報のWeb記事に載りました。
返還活動から半世紀の時を迎えました。
日本では1番古い遺留品返還活動プロジェクトです。

「日本に戻ってこそ英霊が安らげる」

今も米国内に残る旧日本兵の遺品を故郷に返そうと
在米の日本人らでつくる遺品返還グループ「キセキ」が
半世紀に及ぶ地道なボランティア活動を続けている。
青森県内にも過去、複数の遺品を返還した。
7月末には、唯一の手がかりが「弘前」という、
青森県にゆかりのある北海道の男性に兄の遺品を引き渡したばかり。
決死の覚悟で日本を離れた兵士の「帰還」を願う、
1年がかりの執念の調査だった。

東奥日報様、有難うございました。
少人数で活動していますので、情報をアナウンスされるのは
私達にとって、とても助かります。
今後とも宜しくお願い致します。

本日の朝日新聞(夕刊)

私達の遺留品返還活動が朝日新聞に載りました。
返還活動を始めて、今年で50年目になります。
現在、返還に取り組んでいる多くのグループが
存在しますが、その中でも一番古い組織です。

これだけ長く続けていられるのは
慌てず急がずマイペースで
自然体の流れで活動出来ているからと
然程メンバーは多くありませんが
夫々の個人の持ち味や取り柄を生かせるよう
心掛けながら活動をしているからです。

しかし、終戦から74年経った現在の日本には戦争に出征され
若くして生命を落とされた青年達のご遺族も年々減ってきて
いるのも事実です。

今の私たちは当たり前かのように思っている、
目の前にある食物や飲料水
季節毎に変わる美しい山の景色や風景など、
全てが英霊達が守ってくれた貴重な宝です。

風化させずに後世に伝えていくことが私たちの
責務とも思っています。

朝日新聞さんからの転載の許可を得ましたので
此処に私達が今まで活動してきた記事を載せたいと思います。

この記事を担当されました小川様にお礼申し上げます。

有難うございました。

Web版

https://www.asahi.com/articles/DA3S14089272.html

 

太平洋戦争中の激戦地に残された日本兵の遺品。
日章旗や手紙、写真といったものが米軍兵士によって持ち帰られたが、
50年ほど前、遺品を持ち主の遺族らに返す取り組みが米国で始まった。
始めたのは米国に住む三重県出身の医師だ。
半世紀近い地道な活動はいま、新たなメンバーに引き継がれている。

昨年11月、横浜ログイン前の続き市の野村恵美さん(54)は、長崎・五島列島で暮らす
父親と一緒に1枚のはがきを受け取った。

はがきは、伯父の山口茂男さん(故人)が出征前に働いていた会社の上司に
宛てたもの。野村さんによると、山口さんは西太平洋のマリアナ諸島で
1944年7月ごろに戦死したという。はがきを目にして「若かった伯父は戦争から帰ったら、やりたいことがたくさんあったんだろう」と感じた。

野村さんを訪ねてはがきを届けたのは米イリノイ州に住むジャガード千津子さん5年前から日本兵の遺品返還に携わっている。はがきは昨年5月、元米海兵隊員の遺品を調べている中から出てきた11枚のうちの1枚だった。

ジャガードさんが加わる遺品返還活動は、米オハイオ州に住む加治安彦さん
が半世紀近くかけて築き上げてきたものだ。

加治さんは三重県出身で、祖父や父は軍医。
加治さんは名古屋大医学部に進み、大学院を経て米国の大学で研究員になった。その後、米国で産婦人科医院を開業した。

70年ごろ、後に加治さんの妻となる女性が、米国の知人から相談を受けた。
サイパン島から持ち帰られた旧日本兵の写真帳を持ち主に返したいという
話だった。

その出来事をきっかけに、軍装品のフリーマーケットで旧日本兵の遺品が多く
売り出されていることを、加治さんは知った。
寄せ書きされた日章旗や手帳、写真などを買い取り始めた。

住所や出身地がわかるものは、直接家族に連絡して返した。
加治さんの活動を知って寄付してくれる人もいた。
「もしも魂というものがあるならば、もう一度遺品と一緒に、
家族のもとに戻ってほしい」という気持ちだった。

2004年ごろ、高校時代の親友だった西羽潔さん(故人)が専用の
ホームページを制作。
加治さんが収集した遺品を掲載し、20点以上を遺族に返すことが
できたという。しかし、西羽さんは10年に亡くなった。

今度は、西羽さんの長女が父の遺志を継ぐように加わったほか、
加治さんの知人である米国の退役軍人らも参加してきた。
ジャガードさんも後に加わった一人だ。

愛知県刈谷市出身で、大学卒業後に米国に渡ったジャガードさん。
米海兵隊員の義父が亡くなり、5年前に遺品整理をしていて
見つけた日章旗を持ち主に返そうと思ったのが、
活動に加わったきっかけだった。
加治さんらのホームページを通じて、連絡をとった。

今、活動のメンバーは加治さんを含め米国に3人、日本に4人。ジャガードさん
は新聞に遺品返還を呼びかける記事を寄稿したり、古物商や遺産を売却処分する
エステートセール」などを回ったりしている。

ジャガードさんは「時間とともに遺族が少なくなっていく」と憂える。
世代によっては関心がなく、受け取りをためらう遺族もいるという。
「遺品を受け取る側と送る側が、ともに喜べる返還をしていきたい」

(小川崇)

私は一度も逢ったことがない亡くなられためぐみさんのお父様
まさか名前が全国紙に載るとはと、天国で「速報号外」が届いて
驚かれているのではないでしょうか。
私達の活動を暖かく見守っててくださいね。

捜索活動(台湾編)

捜索活動をしていると、たまに私達と同じような目的で
捜索をされている方の記事を読む事があります。

引き揚げた恩師どこに 台北の95歳が「石垣先生」捜す
「もう一度お礼を」
2017年09月01日 14時11分
https://www.nishinippon.co.jp/feature/attention/article/368593/

「このままでは一生後悔する。亡くなっているかもしれないが、
墓参りだけでもしたい」この言葉が私の心を動かしました。
何よりも李さんが95歳とご高齢だったのが気になってしまった。

そこで普段捜索しているのを一時中断し情報を求めている
台湾の王さんのFacebookにアクセスをして
どこまで情報が解っているのか、お話を聞かせてもらったところ
小学校に通っていた年代や学校名しか解らなく
捜索がかなり難航されている状況だという。

 

 

 

 

 

 

 

台湾で先生の職に就いてるのであれば・・・と
思い当たる節があるので調べてみると
かなり細かなデータを抽出する事が出来ました。

1922年〜1944年まで台湾在住
小学校を転々とし、1940年には山林課に勤務
終戦まで台湾に在住されていたのが判明した。
しかし、ひとつ厄介な事に本籍欄には
1923年〜1939年までは沖縄県
1940年〜1943年までは長崎県
1944年は空欄となっていたこと。
この空欄が何を意味しているのかが解らなかった。

暫くすると、台湾の方から思いもよらぬ悲報が届きました。
新聞記事を担当された西日本新聞台北支局に
勤務されていた中川博之支局長が 48歳という若さで
タクシーに跳ねられお亡くなりになられたとのこと。
https://www.recordchina.co.jp/b191197-s0-c30-d0045.html

2週間前に恩師を捜し求める記事を西日本新聞に載せてくれたのが
中川支局長だったのに・・・・・

ご高齢の李さんと、中川支局長さん2人の為にもと時間を費やし
そして色々調べ続けた結果2018年6月、ご遺族が判明し
李さんは年齢がひとつ増え、96歳となり長崎へとこられ
石垣先生のお墓参りをすることが出来た。

西日本新聞では(上・中・下)と大きく取り合げられました。

私が今、こうしているのは、先生のおかげですと何度も何度も呟きながら。
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/culture/article/425477/

ある琉球人の生涯(中) 日本統治時代の台湾 琉球人は「2等国民」
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/culture/article/425476/

ある琉球人の生涯(下) 日本の敗戦 石垣島へ引き揚げることなく
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/culture/article/425475/

今までご遺族捜しにボランティアで参加している中で
新聞記事やWebSiteで3編にして取り上げられたのは初めてで
恐らく台北の支局長だった中川支局長の記事が実ったから
西日本新聞社から中川支局長への想いもあるのだろう。

私的にも中川支局長の一周忌を迎える前に判明し
また、李さんが生きている間にお墓参りが出来て良かったです。

こうして、ひとつの返還活動の枠だけに囚われず心を広く持ち
自分が協力出来ることは 率先して協力していこうと思う。
また、遺留品というのは日章旗もあれば千人針・軍事郵便もあり
更にはこのような人との繋がりもあるというのを忘れてはならない。