北海道新聞に載りました!

北海道新聞に日章旗を摩周丸に寄贈した記事が載りました。

記事は主見出しに「戦中の日章旗 摩周丸に」とあり
袖見出しには「米から寄贈 徴兵の 船員宛」

以下記事全文です。

「祝樋坂秦助君入営」と大きくしたためられた筆文字の
日章旗が、函館市青函連絡船記念館摩周丸(’若松町)で
保管されている。
戦時中に徴兵された船員に宛てられた。
米国に長くあったが、今春、記念館に届けられた。
関係者は「貴重な資料として残していきたい」と
平和への願いを新たにしている。(齊藤直史)

「来夏にも公開へ」

日章旗は今年4月。イリノイ州の団体
「キセキ遺留品返還プロジェクト」を通じ
記念館に届いた。

同団体によると、日章旗は元米陸軍兵士の
ウイリアム・ザビンスキー氏(故人)の息子2人が
所有していた。

ザビンスキー氏は戦時中、グアムやフィリピンなどに
配属され、戦後は1945年9月から46年11月まで進駐軍
として北海道に滞在した軍歴が残っている。

一方、日章旗の入手時期については家族にも
話してないという。

息子2人は日本への返還を希望。
記念館を訪れたことがある団体関係者が
旗に残された同船の山田友二さん(94)の署名を
もとに打診した。
山田さんは1944年(昭和19年)に3等航海士となり
樋坂秦助さんは連絡船「飛鸞丸」の操舵手として
共に働いた年上の同僚だった。
召集は「その年の夏頃」と記憶する。

樋坂さんの出征記録や、鮮度の足取りについては
はっきりしていない。
97年時に、同姓同名の人物が民生委員として活動した
記録が函館市に残る。
「近所に住んでいた」
「戦後も青函連絡船の職員として働いていた」
などの市民の証言もあるが、日章旗をおくられた
樋坂さんと同一人物であるか、確認は出来ていない。

日章旗には日の丸を同僚らの「玉砕」「撃滅」と
いった言葉が囲む。
当時多用されていた「至誠」の言葉を記した
山田さんは「無事に帰ってきていたなら、もう一度
会いたかった。日章旗は本人に返還されることが
望ましい」と話している。

寄贈を受けた記念館の指定管理者のNPO
「語りつぐ青函連絡船の会」にょると
連絡船は戦時中、石灰輸送などの国策を担い
次々に造られた。船員は不足していたとみられ
徴兵は珍しかったとみられる。
一方、45年7月の函館襲撃で300人以上の船員が
なくなっている。
同会の高橋摂事務局長は「筆文字や汚れなど
保存状態が大変良い。二度と悲惨な戦争を
起こさない思いを強くした」と話す。

同会は来夏にも展示会で日章旗を公開する。

この日章旗の捜索にご協力頂きました。

HTB放送報道部
北海道新聞
摩周丸博物館
賢明女子学院 松浦校長様

本当に有難うございました。
米国から日本へと74年の長旅は
無事に最終章を迎えられました。

米国から日本
日本から摩周丸への長い道のり

 

74年ぶりに日本へ

以前、投稿しましたひとつの日章旗が現在
米国から日本へと戻られているところです。


日章旗返還を依頼されたザビンスキー夫妻です。


デイヴさんと返還活動に協力してくださっている
米国キセキ返還プロジェクト ジャガード・千津子さんです。

ジャガードさんは2016年11月に寄贈先である
函館市青函連絡船摩周丸へ立ち寄ったこともあります。

函館と青森を結ぶ連絡船として活躍した青函連絡船・摩周丸
館内では船長気分が楽しめる操舵室や無線室があり
連絡船の資料も展示されています。

今回、戦争を知らない私は多くの事を学ばされた日章旗となりました。
洞爺丸台風で1155人もの犠牲者を出し、それが交通手段の見直しの
きっかけともなり、天候に影響されず、安心・安全の輸送を目指し
国が1400億を投じられ北海道と本州を結ぶ青函トンネルの工事が
始まった。

青函トンネル工事の記録
https://www.youtube.com/watch?v=K1vwTo3_ze4

海難事故から60年以上過ぎた今でも校長先生の記憶として鮮明に残り
生徒たちへの教えとなっていること。
※賢明女子学院校長様、メール拝読しました、有難うございました。

洞爺丸に乗船していた宣教師であるディーン・リーパーさんは
海難死する直前に、混乱する乗客を手品で和ませたりして、
日本人の子供に自分の救命胴衣を着させ犠牲となり、
子供が生き残ったことや息子さんのスティーブン・リーパーさんは
広島平和文化センターの理事長を就任されたこと。

寄贈先となる函館市青函連絡船摩周丸のご担当者からは

●青函連絡船乗組員は「戦地に赴くことはまずない=戦死することはない」
と思っていた。
●しかし、船員も召集されるようになってしまった
●山田さんのような高級船員(商船学校卒)は、もともと海軍予備士官・
下士官で、軍事訓練も受けていた。
●連絡船乗組員が出征する(あるいは召集される)ことになったので、
みんなで寄せ書きをしたのではないか
●戦争末期には青函連絡船も空襲され、全滅した。

と、詳しく教えて頂きました。

この日章旗には第七青函丸や飛鸞丸とも署名がありますので
同僚の仲間の署名が濃厚で、昭和20年7月14日2隻とも
空襲を受けたという記録がありました。

なぜ、ここまで青函連絡船が米軍に狙われたのか、
それは石炭輸送という大動脈を断ち切る為でした。

また、北海道テレビ報道部の方からは署名されている
山田友二さんの件でお問い合わせしたところ
当時91歳で、ご存命であると知らせを受け

更には遡ること30年程前のNHKが制作された番組でしょうか。
(青函連絡船終航の際、制作されたと説明欄に有り)
山田友二さんが番組に出演されているの見つけました。
青函連絡船 栄光の奇跡 1時間02分過ぎから七重浜を歩いている
山田さんが登場し、洞爺丸台風について語られています。
https://www.youtube.com/watch?v=wJZwUJDHR20&t=2180s

その後、山田友二さんは青函連絡船摩周丸の船長ともなりました。
山田友二さんは「孫の世代に北海道と本州を結ぶ大動脈として
活躍した連絡船を伝えたい」と話している。

まさにこの日章旗は他の日章旗とは異なり
私たちの世代に伝えなければならない歴史的価値が有る
日章旗だと思います。

山田友二さんは現在93歳で今年2月4日〜8日まで
北海道新聞に「私のなかの歴史」と題し、掲載されていました。





この記事のおかげで寄贈された日章旗が
いつ頃署名されたのかまで解りました。

新聞記事にはこのように書かれています。
1944年4月、国策で運航されていた青函連絡船への勤務が命じられました」
「配属は飛鸞丸3等航海士、まだ19歳という若さでした」
9ケ月後には第八青函丸2等航海士に任命されました」

日章旗には 飛鸞丸 三運 山田友二と署名されております。
よって、この日章旗は1994年4月から1995年1月までの9ケ月間
なります。山田さんはまだ未成年だった頃かもしれません。

海難事故後は何かとご足労されたと思います。
今だからこそ言える生き証人として
これからも健康で長生きしてほしいものです。

返還にご協力して下さった
北海道テレビ報道部様
函館市青函連絡船摩周丸様
賢明女子学院校長様

そして何よりもザビンスキー夫妻とデイブ様に
心より深く感謝致します。

一枚の日章旗の物語


この日章旗は悲劇もあれば感動もありで
何かと驚かされた日章旗でもありました。

アメリカのデイブ・ザビンスキー
様からの依頼で
太平洋侵攻作戦に参加された父親が持ち帰えられ
亡くなる前にぜひお前から日本へ返還して欲しいと
長男のデイブ様に遺言された日章旗。

去年の6月初旬から捜索を始め、まず最初に驚いたのは
1人の署名者が、死者・行方不明者あわせて1155人に及ぶ
日本海難史上最大の惨事となった洞爺丸の船員だったということ。
山田友二さんが北海道テレビの取材に応じている動画を偶然見つけ
私は北海道テレビ報道部へ事情を説明し聞いてみたところ、
日章旗に署名した本人に間違いないとのご返答を頂きました。
【朝日新聞×HTB 北海道150年 あなたと選ぶ重大ニュース】
青函連絡船の2つの悲劇
https://www.youtube.com/watch?v=2Fn-22uht2M&t=398s
(※05:25過ぎから山田友二さんが登場致します)

また、山田さん曰く「樋坂は私より先輩だった」とのことでした。
懐かしいということはお話されていたそうです。
北海道テレビ報道部の皆さん、ご協力有難うございました。


至誠 飛鷹丸 三運 山田友二と署名有り


北海道テレビの取材に応じる山田友二さん


洞爺丸台風は全国紙1面に大きく載っていました。

洞爺丸台風のニュース

https://www.youtube.com/watch?v=P4UKFGXlGVc


山田さんは洞爺丸の船長の代わりに
海難審判へも出席されていました。

当時は船長の過失によって事故が起きたと
報じられましたが、山田さんは今でも
「人知及ばぬ自然の力」だと訴え続けています。
1920年代当時の気象予報は現在のものほど
正確ではありませんでした、台風の動きなどが
予想出来ず誤った判断による海難事故が
多発していた時代でもあります。
なので、船長の過失な判断が原因という裁決は
あまりにも酷かと思うところがあります。

この日章旗にはもう一人重要な署名がありました。
それは当時「船長の判断」によって明暗を分けたと
されている羊蹄丸の船長、佐藤昌亮大尉の署名です。

羊蹄丸の佐藤船長は「本船はテケミする」
※「テケミ」とは「天候険悪出港見合わせ」の略語です。
と、出航しなかった為、台風の難を逃れました。
この事は、賢明女子学院の校長先生のブログに
書かれています。
ちょうど捜索が始まった月に、新規更新をされ
羊蹄丸の佐藤昌亮船長とまで書かれていたのを
見つけた瞬間、鳥肌が立ちました。
校長先生のブログを読んで佐藤昌亮大尉が
羊蹄丸の船長だと判明したのです。
https://himejikenmei.ac.jp/wordpress/?p=13876

難を逃れた羊蹄丸船長 佐藤昌亮さんの署名
洞爺丸台風で多くの命を失われた中
かろうじて生き残った洞爺丸乗組員の署名

この2名が一枚の日章旗に署名されているのは
恐らくこの一枚だけでしょう。

もし羊蹄丸も出航されていたら海難審判も
山田さんが仰る通り、「人知及ばぬ自然の力」と
裁決されていたかもしれません。

また、捜索を続けていると、宣教師である
ディーン・リーパーさんが洞爺丸に乗船をしており
救命具のない学生を見つけ「あなたの前途は長いから」
と言って、自らの命を投げ出し救命具を譲ったそうです。

STVラジオ「北海道100年物語」で語られています。
https://youtu.be/uZV3iiIcIOM

事件後、日本経済新聞は、救命具を譲り
乗客を励ましながら亡くなられた2人の宣教師を
「北海に散った外人宣教師」の見出しで報じられています。
またご子息であるスティーブン・リーパーさんは
米国人として初の広島平和文化センター理事長に就任され
乗客を励ました父 誇りに思うと北海道新聞に載っていました。

今でも海難事故があった北斗市では、あの時の悲惨な海難事故を
風化せぬよう、供養が行われています。
https://www.youtube.com/watch?v=ZYjYg6yzNTI

こうして多くの歴史がある日章旗が74年経過した今
日本へ戻られようとしています。

この日章旗は函館市青函連絡船摩周丸博物館へ寄贈される予定です。

日章旗に署名されている名前や言葉

樋坂泰助君入営
大勇 小見山
負けるな 升崎
玉砕
海軍大尉 佐藤昌亮(※羊蹄丸船長)

大義
勇戦奮闘
斃而不己 第七青函丸
飛鳥神社
氣比神社
至誅

至誠 飛鸞丸 三運 山田友二(※洞爺丸船員)
忠誠 飛鸞丸 二運 小坂
必滅洋鬼 飛鸞 一運 佐藤

不知身惜命
東出房吉

忠孝
小林
忠君愛國
飯田栄太郎
義烈
川端七之助
剛気貫山
第七青函丸
伊勢
精誠
村上興三郎
何ニ糞ノ精神忘れるな
中村武男
勇戦奮斗

立間

旧・手宮駅長官舎

1884(明治17)年築 旧所在地:小樽市手宮町
北海道初の鉄道である幌内鉄道の手宮駅の駅長官舎として建設




出典元 Railstation.net

中でも明治・大正時代に建設された機関車庫、転車台、貯水槽、
危険品庫、擁壁は北海道の近代史・産業史を考える上で
特別な遺産とされ「旧手宮鉄道施設」として国指定重要文化財に
指定されています

現在捜索中の日章旗には名前はないが「手宮駅長」と署名がある。
そのたったひとつのヒントを頼りに小樽市総合博物館へ当時の
駅長名や出征された加藤 實さんの情報を得られないか
問い合わせたところ、やはりこれだけの情報では厳しいそうで
手宮駅のOB会も10年前に解散されたのだという。

ただ、「鉄道省」という新たなヒントを頂いたので
そこからまた捜索すると「鉄道省職員録」をネット上で発見した。

その中に加藤 實さんの名前がありました。
左頁 上段 右から2番目

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更に並列して田村 保さんの名前があり、日章旗にも為書きされた
すぐ近くに「田村」の姓が書かれてあり、再度小樽市総合博物館へ
お問い合わせしたところ嬉しい返答が届きました。

「ご連絡ありがとうございます。
これで旧鉄道省の職員であることははっきりしました。
次はご家族の調査ということになりますが、
前回述べた、当館の元職員に訪ねるしかないかと思われます」

「手宮駅長」という僅かな捜索のきっかけから始まり
ここ数日間で大きく前進しました。

国の国指定重要文化財にも指定されている旧手宮線鉄道に
関わっている日章旗、ご遺族に返還出来るよう
更に捜索を続けて参ります。