6名の少年飛行兵達

現在、6名の少年飛行兵達のご遺族捜しが難航しています。

予科練資料館などにある資料で人数が絞り込める程度の状態
また、私自身が予科練に対する知識が無いというのも理由のひとつ。

どうにかして、写真をご遺族の元へとお返ししたい。

そこで、この記事を読まれた方にお願いがあります。
6名の写真と裏側に書いてある名前などを此処に載せますので
何かご存知な方や詳しい方、情報がございましたら
senso_ihin@outlook.jpまでお願い致します。


百里原航空隊
甲練九期生
関矢 二飛曹

甲練九期生昭和16年10月1日入隊先は851名が土浦海軍航空隊

乙飛14期生
児島飛行兵長

雲染や
何処の空を今頃は
思い出の君

乙飛14期昭和15年8月1日 入隊先は298名が霞ヶ浦海軍航空隊

甲種飛行10期生
32期水戦10期生
山本二飛曹

甲飛10期生昭和17年4月1日 入隊先は1097名が三重土浦海軍航空隊

海軍少年飛行兵出身
乙飛練18期生
大空の後翼
蓮谷一飛
水戦35期生
東京出身

乙飛18期生昭和17年5月1日 1480名が土浦海軍航空隊

筑波に雲なし
赤トンボ
松本飛長
甲飛11期生
水戦隊13小隊32期
土浦海軍航空隊

32期水戦隊の
我等が同期生

甲飛11期生昭和17年10月1日 1191名が土浦三重海軍航空隊
松本飛長は土浦海軍飛行隊と明記有り

松崎昭三さん
昭和19年2月13日
三重海軍航空隊
乙種飛行隊科練習生
第21期
(舞●飛3005)
(海軍2等飛行兵)
松崎昭三

( )内は黒字消し

乙飛21期生昭和18年12月1日 4359名が三重鹿児島海軍航空隊
※松崎昭三さんは三重海軍航空隊と明記有り

 

一枚の日章旗の物語


この日章旗は悲劇もあれば感動もありで
何かと驚かされた日章旗でもありました。

アメリカのデイブ・ザビンスキー
様からの依頼で
太平洋侵攻作戦に参加された父親が持ち帰えられ
亡くなる前にぜひお前から日本へ返還して欲しいと
長男のデイブ様に遺言された日章旗。

去年の6月初旬から捜索を始め、まず最初に驚いたのは
1人の署名者が、死者・行方不明者あわせて1155人に及ぶ
日本海難史上最大の惨事となった洞爺丸の船員だったということ。
山田友二さんが北海道テレビの取材に応じている動画を偶然見つけ
私は北海道テレビ報道部へ事情を説明し聞いてみたところ、
日章旗に署名した本人に間違いないとのご返答を頂きました。
【朝日新聞×HTB 北海道150年 あなたと選ぶ重大ニュース】
青函連絡船の2つの悲劇
https://www.youtube.com/watch?v=2Fn-22uht2M&t=398s
(※05:25過ぎから山田友二さんが登場致します)

また、山田さん曰く「樋坂は私より先輩だった」とのことでした。
懐かしいということはお話されていたそうです。
北海道テレビ報道部の皆さん、ご協力有難うございました。


至誠 飛鷹丸 三運 山田友二と署名有り


北海道テレビの取材に応じる山田友二さん


洞爺丸台風は全国紙1面に大きく載っていました。

洞爺丸台風のニュース

https://www.youtube.com/watch?v=P4UKFGXlGVc


山田さんは洞爺丸の船長の代わりに
海難審判へも出席されていました。

当時は船長の過失によって事故が起きたと
報じられましたが、山田さんは今でも
「人知及ばぬ自然の力」だと訴え続けています。
1920年代当時の気象予報は現在のものほど
正確ではありませんでした、台風の動きなどが
予想出来ず誤った判断による海難事故が
多発していた時代でもあります。
なので、船長の過失な判断が原因という裁決は
あまりにも酷かと思うところがあります。

この日章旗にはもう一人重要な署名がありました。
それは当時「船長の判断」によって明暗を分けたと
されている羊蹄丸の船長、佐藤昌亮大尉の署名です。

羊蹄丸の佐藤船長は「本船はテケミする」
※「テケミ」とは「天候険悪出港見合わせ」の略語です。
と、出航しなかった為、台風の難を逃れました。
この事は、賢明女子学院の校長先生のブログに
書かれています。
ちょうど捜索が始まった月に、新規更新をされ
羊蹄丸の佐藤昌亮船長とまで書かれていたのを
見つけた瞬間、鳥肌が立ちました。
校長先生のブログを読んで佐藤昌亮大尉が
羊蹄丸の船長だと判明したのです。
https://himejikenmei.ac.jp/wordpress/?p=13876

難を逃れた羊蹄丸船長 佐藤昌亮さんの署名
洞爺丸台風で多くの命を失われた中
かろうじて生き残った洞爺丸乗組員の署名

この2名が一枚の日章旗に署名されているのは
恐らくこの一枚だけでしょう。

もし羊蹄丸も出航されていたら海難審判も
山田さんが仰る通り、「人知及ばぬ自然の力」と
裁決されていたかもしれません。

また、捜索を続けていると、宣教師である
ディーン・リーパーさんが洞爺丸に乗船をしており
救命具のない学生を見つけ「あなたの前途は長いから」
と言って、自らの命を投げ出し救命具を譲ったそうです。

STVラジオ「北海道100年物語」で語られています。
https://youtu.be/uZV3iiIcIOM

事件後、日本経済新聞は、救命具を譲り
乗客を励ましながら亡くなられた2人の宣教師を
「北海に散った外人宣教師」の見出しで報じられています。
またご子息であるスティーブン・リーパーさんは
米国人として初の広島平和文化センター理事長に就任され
乗客を励ました父 誇りに思うと北海道新聞に載っていました。

今でも海難事故があった北斗市では、あの時の悲惨な海難事故を
風化せぬよう、供養が行われています。
https://www.youtube.com/watch?v=ZYjYg6yzNTI

こうして多くの歴史がある日章旗が74年経過した今
日本へ戻られようとしています。

この日章旗は函館市青函連絡船摩周丸博物館へ寄贈される予定です。

日章旗に署名されている名前や言葉

樋坂泰助君入営
大勇 小見山
負けるな 升崎
玉砕
海軍大尉 佐藤昌亮(※羊蹄丸船長)

大義
勇戦奮闘
斃而不己 第七青函丸
飛鳥神社
氣比神社
至誅

至誠 飛鸞丸 三運 山田友二(※洞爺丸船員)
忠誠 飛鸞丸 二運 小坂
必滅洋鬼 飛鸞 一運 佐藤

不知身惜命
東出房吉

忠孝
小林
忠君愛國
飯田栄太郎
義烈
川端七之助
剛気貫山
第七青函丸
伊勢
精誠
村上興三郎
何ニ糞ノ精神忘れるな
中村武男
勇戦奮斗

立間

本日の沖縄タイムス/Yahooに載りました

「昭和十一年一月 宇栄原キミヨ」さんの写真
持ち主探してます 元米兵の遺品から見つかる」


2019年2月9日 05:00

 太平洋戦争に従軍し、昨年1月に亡くなった元海兵隊員の遺品から、沖縄県出身者と思われる家族の写真など6枚見つかった。写真館で撮られたと思われる家族写真や小学校の集合写真などで、写っている少女の3歳~小学生ごろまでの成長が確認できる。米兵が戦地から持ち帰った遺留品を遺族に返す活動をしている米国のボランティア団体「キセキ遺留品返還プロジェクト」は、「写真に写っている少女は存命の可能性もある。家族に返したい」と情報提供を呼び掛けている。(社会部・吉川毅)

沖縄タイムス
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/383136

Yahoo
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190209-00383136-okinawat-oki

沖縄タイムス

従軍日誌

捜索は組織表が載っている従軍日誌をよく見るようにしています。
出征された時期や出身地、所属された軍隊名等を特定出来れば
絞れることもできるからです。
それにはかなりの時間を必要とされますが何かしらの
きっかけがひとつでも見つかれば、今まで全く動かなかったことも
ご遺族捜しへ解決へと一気に展開が変わっていきます。

また従軍日誌とは全く異なった、個人的な日記もあります。
今日、ご紹介するのは私のお気に入りの一冊です。
これは高知から出征された父親が遠く離れた戦地から
愛するお子さんへの想いを日々綴られた日記です。

1957年米兵がニューギニアの戦場で日本兵であった
父の亡骸から日記を見つけ、それを日本のご遺族に返還され
アメリカのリーダーズ・ダイジェストにも取り上げられました。

日本語版では、アメリカは案外に近かった!/倉橋 睦
と、娘さんの名前が載っています。

1957年、1月20日付のThe Indianapolis Starにも掲載され
当時かなり有名なエピソードだったそうです。

中にはこの本を読まれ感動しギリシャ語に翻訳し出版もされた方や
ネットでは、2003年出版のChristina Klein 著
”Cold War Orientalism, Asia in the Middlebrow Imagination, 1945-1961”
この論文に睦さんの父上の日記のエピソードが引用されてもいます

「America Seems Near to Me Now」
Asia in the Middlebrow Imagination, 1945-1961 Christina Klein.
them to put the ideal of international commitment into practice.
In 1957, for instance,
Reader’s Digest published an article that invited readers to cultivate
mutual understanding between the U.S. and Japan.
“America Seems Near to Me Now,”
a first-person story written by Mutsumi Kurahashi,
told how a former GI had brought her family great peace of mind
— and good feelings toward the United States — when he returned …

日記はあるアメリカ兵が戦利品として持ち帰り、戦後の昭和31年
大方町のご遺族のもとに届けられました。
高知新聞連載「祖父たちの戦争」(南海支隊の生き残り兵士の記録)
にも載りました。
https://www.kochinews.co.jp/article/164093/
※読まれるには会員登録(無料)が必要

そのお父さんの日記を自費出版したのが娘さんの花井 睦さん。
花井 睦さん編「父が残した戦場日記 ニューギニアから故郷土佐へ」
滅多に本を購入しない私が大切にしている本です。

第59回「高知県出版文化賞」を受賞されています。

2013年8月25日放送の24時間テレビ では
http://www.ntv.co.jp/24h/history/36.html
「日本人18万人が命を落とした戦場 生涯をかけて守った友との約束」

オーストラリアの学校で教材にもなっているという西村幸吉さん宅に
相葉雅紀さんがお訪れ、太平洋戦争のニューギニアの戦いに出征した
西村さんは半年間戦い続けた。
2ヶ月分の食料しか持って行かなかった日本兵は飢えとの戦いにも苦しみ、
西村さんは出兵当時73キロあった体重が帰国時には28キロしかなかったという。
西村さんの戦友・倉橋一美さんの娘の睦さんが毎年行われるパプアニューギニアで行われる慰霊祭に参加していた。
戦後、一美さんの日記が睦さんに届けられ父の思いを知ることができたという。
そして最後の日記に「子ども見たし」と綴った一美さんは、帰らぬ人となった。

戦場という過酷な地でも、息絶えるまでお子さんの事を想い綴った日記です。

旧・手宮駅長官舎

1884(明治17)年築 旧所在地:小樽市手宮町
北海道初の鉄道である幌内鉄道の手宮駅の駅長官舎として建設




出典元 Railstation.net

中でも明治・大正時代に建設された機関車庫、転車台、貯水槽、
危険品庫、擁壁は北海道の近代史・産業史を考える上で
特別な遺産とされ「旧手宮鉄道施設」として国指定重要文化財に
指定されています

現在捜索中の日章旗には名前はないが「手宮駅長」と署名がある。
そのたったひとつのヒントを頼りに小樽市総合博物館へ当時の
駅長名や出征された加藤 實さんの情報を得られないか
問い合わせたところ、やはりこれだけの情報では厳しいそうで
手宮駅のOB会も10年前に解散されたのだという。

ただ、「鉄道省」という新たなヒントを頂いたので
そこからまた捜索すると「鉄道省職員録」をネット上で発見した。

その中に加藤 實さんの名前がありました。
左頁 上段 右から2番目

拡大

更に並列して田村 保さんの名前があり、日章旗にも為書きされた
すぐ近くに「田村」の姓が書かれてあり、再度小樽市総合博物館へ
お問い合わせしたところ嬉しい返答が届きました。

「ご連絡ありがとうございます。
これで旧鉄道省の職員であることははっきりしました。
次はご家族の調査ということになりますが、
前回述べた、当館の元職員に訪ねるしかないかと思われます」

「手宮駅長」という僅かな捜索のきっかけから始まり
ここ数日間で大きく前進しました。

国の国指定重要文化財にも指定されている旧手宮線鉄道に
関わっている日章旗、ご遺族に返還出来るよう
更に捜索を続けて参ります。

捜索活動(台湾編)

捜索活動をしていると、たまに私達と同じような目的で
捜索をされている方の記事を読む事があります。

引き揚げた恩師どこに 台北の95歳が「石垣先生」捜す
「もう一度お礼を」
2017年09月01日 14時11分
https://www.nishinippon.co.jp/feature/attention/article/368593/

「このままでは一生後悔する。亡くなっているかもしれないが、
墓参りだけでもしたい」この言葉が私の心を動かしました。
何よりも李さんが95歳とご高齢だったのが気になってしまった。

そこで普段捜索しているのを一時中断し情報を求めている
台湾の王さんのFacebookにアクセスをして
どこまで情報が解っているのか、お話を聞かせてもらったところ
小学校に通っていた年代や学校名しか解らなく
捜索がかなり難航されている状況だという。

 

 

 

 

 

 

 

台湾で先生の職に就いてるのであれば・・・と
思い当たる節があるので調べてみると
かなり細かなデータを抽出する事が出来ました。

1922年〜1944年まで台湾在住
小学校を転々とし、1940年には山林課に勤務
終戦まで台湾に在住されていたのが判明した。
しかし、ひとつ厄介な事に本籍欄には
1923年〜1939年までは沖縄県
1940年〜1943年までは長崎県
1944年は空欄となっていたこと。
この空欄が何を意味しているのかが解らなかった。

暫くすると、台湾の方から思いもよらぬ悲報が届きました。
新聞記事を担当された西日本新聞台北支局に
勤務されていた中川博之支局長が 48歳という若さで
タクシーに跳ねられお亡くなりになられたとのこと。
https://www.recordchina.co.jp/b191197-s0-c30-d0045.html

2週間前に恩師を捜し求める記事を西日本新聞に載せてくれたのが
中川支局長だったのに・・・・・

ご高齢の李さんと、中川支局長さん2人の為にもと時間を費やし
そして色々調べ続けた結果2018年6月、ご遺族が判明し
李さんは年齢がひとつ増え、96歳となり長崎へとこられ
石垣先生のお墓参りをすることが出来た。

西日本新聞では(上・中・下)と大きく取り合げられました。

私が今、こうしているのは、先生のおかげですと何度も何度も呟きながら。
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/culture/article/425477/

ある琉球人の生涯(中) 日本統治時代の台湾 琉球人は「2等国民」
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/culture/article/425476/

ある琉球人の生涯(下) 日本の敗戦 石垣島へ引き揚げることなく
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/culture/article/425475/

今までご遺族捜しにボランティアで参加している中で
新聞記事やWebSiteで3編にして取り上げられたのは初めてで
恐らく台北の支局長だった中川支局長の記事が実ったから
西日本新聞社から中川支局長への想いもあるのだろう。

私的にも中川支局長の一周忌を迎える前に判明し
また、李さんが生きている間にお墓参りが出来て良かったです。

こうして、ひとつの返還活動の枠だけに囚われず心を広く持ち
自分が協力出来ることは 率先して協力していこうと思う。
また、遺留品というのは日章旗もあれば千人針・軍事郵便もあり
更にはこのような人との繋がりもあるというのを忘れてはならない。

2019年1月

2019年、新年を迎えはや9日が過ぎました。
去年は多くの遺留品をご遺族へ直接お渡しする事が出来ました。

また、NHKスペシャル・京都新聞・東奥日報・岐阜新聞
北海道新聞・山形新聞とメディア関係にも
キセキの遺留品返還活動記事や、ご遺族へ返還する際に
撮影されたご遺族、そして関係者の方々の素敵な笑顔が
載っているのを拝見し、捜索する遣り甲斐を感じます。

今年も国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊に対し
哀悼の誠を捧げるとともに、私達に託されている遺留品を
返還出来るよう心掛けます。

遺留品は戦地で兵士が身につけているもの全てが遺留品です。
返還には難しい遺留品もありますが、避けて通る訳にはいきません。
少しの情報でも、返還が可能な限り、これからも捜索して参ります。
私達が今までご遺族へ返還してきた遺留品の数々は以下の通りです。
・日章旗
・手紙
・日記
・アルバム・写真
・貴重品袋
・手旗信号法
・水平服
・船長の印鑑
・黒帯
・軍事郵便貯金帳
・千人針
・貯金通帳
・軍隊手帳
・万年筆
・補充兵手牒
・従軍手帖
・軍隊手牒
・はがき
・青年学校手帳

他に軍刀や鉄兜などもあります(これはまだ未返還です)

今の日本の平和と繁栄は、現代を生きている私達だけで
成り立っているのではなく、若くして戦場で犠牲となった
御英霊がいてこそです。
ひとつでもご遺族に返還したい、それは身に付けているものであれば
全てがご遺族にとって、形見となり貴重なものです。

ふと、夜空を見上げれば、そこは今を生きる祈りを捧げる場と変わり
ご遺族へ遺留品が届けば、そこは御英霊とご遺族の特別な場と変わります。
その天と地の道を繋ぐのが、キセキ遺留品返還プロジェクトの役割です。

大磯オフ会

【10月31日】
私が住んでいる大磯町には戦後間もなく、寡婦対策のため
女性が働ける場所として建てられた中南電機産業株式会社
という木造の電機部品工場がありました。
現在、その土地には「日日食堂」があります。
旧日本兵への遺品返還活動を行なっている私達には
オフ会をする場所として打って付けの環境でした。
まさか地元にこんな素敵な場所があるなんて思いもしなかったです。

※寡婦とは、出征された夫が戦死され
独り身となった妻を意味する。

こちらが食堂内でとても綺麗です。

大磯の地魚料理はとても美味しかった。

私は今迄ご遺族へ返還した日章旗や手帳や写真、新聞記事お礼の手紙は
全てプリントアウトしてまとめてあり、寡婦対策で建てられた場所でもあるので持って行き、有志メンバーと一緒に食事をしながら楽しい時間を過ごせました。

湘南地域住んでいる方、良い店があるか探している方にお奨めします

Websiteはこちら、今古今から日日食堂へ。

https://conccon.com/