一枚の日章旗の物語


この日章旗は悲劇もあれば感動もありで
何かと驚かされた日章旗でもありました。

アメリカのデイブ・ザビンスキー
様からの依頼で
太平洋侵攻作戦に参加された父親が持ち帰えられ
亡くなる前にぜひお前から日本へ返還して欲しいと
長男のデイブ様に遺言された日章旗。

去年の6月初旬から捜索を始め、まず最初に驚いたのは
1人の署名者が、死者・行方不明者あわせて1155人に及ぶ
日本海難史上最大の惨事となった洞爺丸の船員だったということ。
山田友二さんが北海道テレビの取材に応じている動画を偶然見つけ
私は北海道テレビ報道部へ事情を説明し聞いてみたところ、
日章旗に署名した本人に間違いないとのご返答を頂きました。
【朝日新聞×HTB 北海道150年 あなたと選ぶ重大ニュース】
青函連絡船の2つの悲劇
https://www.youtube.com/watch?v=2Fn-22uht2M&t=398s
(※05:25過ぎから山田友二さんが登場致します)

また、山田さん曰く「樋坂は私より先輩だった」とのことでした。
懐かしいということはお話されていたそうです。
北海道テレビ報道部の皆さん、ご協力有難うございました。


至誠 飛鷹丸 三運 山田友二と署名有り


北海道テレビの取材に応じる山田友二さん


洞爺丸台風は全国紙1面に大きく載っていました。

洞爺丸台風のニュース

https://www.youtube.com/watch?v=P4UKFGXlGVc


山田さんは洞爺丸の船長の代わりに
海難審判へも出席されていました。

当時は船長の過失によって事故が起きたと
報じられましたが、山田さんは今でも
「人知及ばぬ自然の力」だと訴え続けています。
1920年代当時の気象予報は現在のものほど
正確ではありませんでした、台風の動きなどが
予想出来ず誤った判断による海難事故が
多発していた時代でもあります。
なので、船長の過失な判断が原因という裁決は
あまりにも酷かと思うところがあります。

この日章旗にはもう一人重要な署名がありました。
それは当時「船長の判断」によって明暗を分けたと
されている羊蹄丸の船長、佐藤昌亮大尉の署名です。

羊蹄丸の佐藤船長は「本船はテケミする」
※「テケミ」とは「天候険悪出港見合わせ」の略語です。
と、出航しなかった為、台風の難を逃れました。
この事は、賢明女子学院の校長先生のブログに
書かれています。
ちょうど捜索が始まった月に、新規更新をされ
羊蹄丸の佐藤昌亮船長とまで書かれていたのを
見つけた瞬間、鳥肌が立ちました。
校長先生のブログを読んで佐藤昌亮大尉が
羊蹄丸の船長だと判明したのです。
https://himejikenmei.ac.jp/wordpress/?p=13876

難を逃れた羊蹄丸船長 佐藤昌亮さんの署名
洞爺丸台風で多くの命を失われた中
かろうじて生き残った洞爺丸乗組員の署名

この2名が一枚の日章旗に署名されているのは
恐らくこの一枚だけでしょう。

もし羊蹄丸も出航されていたら海難審判も
山田さんが仰る通り、「人知及ばぬ自然の力」と
裁決されていたかもしれません。

また、捜索を続けていると、宣教師である
ディーン・リーパーさんが洞爺丸に乗船をしており
救命具のない学生を見つけ「あなたの前途は長いから」
と言って、自らの命を投げ出し救命具を譲ったそうです。

STVラジオ「北海道100年物語」で語られています。
https://youtu.be/uZV3iiIcIOM

事件後、日本経済新聞は、救命具を譲り
乗客を励ましながら亡くなられた2人の宣教師を
「北海に散った外人宣教師」の見出しで報じられています。
またご子息であるスティーブン・リーパーさんは
米国人として初の広島平和文化センター理事長に就任され
乗客を励ました父 誇りに思うと北海道新聞に載っていました。

今でも海難事故があった北斗市では、あの時の悲惨な海難事故を
風化せぬよう、供養が行われています。
https://www.youtube.com/watch?v=ZYjYg6yzNTI

こうして多くの歴史がある日章旗が74年経過した今
日本へ戻られようとしています。

この日章旗は函館市青函連絡船摩周丸博物館へ寄贈される予定です。

日章旗に署名されている名前や言葉

樋坂泰助君入営
大勇 小見山
負けるな 升崎
玉砕
海軍大尉 佐藤昌亮(※羊蹄丸船長)

大義
勇戦奮闘
斃而不己 第七青函丸
飛鳥神社
氣比神社
至誅

至誠 飛鸞丸 三運 山田友二(※洞爺丸船員)
忠誠 飛鸞丸 二運 小坂
必滅洋鬼 飛鸞 一運 佐藤

不知身惜命
東出房吉

忠孝
小林
忠君愛國
飯田栄太郎
義烈
川端七之助
剛気貫山
第七青函丸
伊勢
精誠
村上興三郎
何ニ糞ノ精神忘れるな
中村武男
勇戦奮斗

立間

本日の沖縄タイムス/Yahooに載りました

「昭和十一年一月 宇栄原キミヨ」さんの写真
持ち主探してます 元米兵の遺品から見つかる」


2019年2月9日 05:00

 太平洋戦争に従軍し、昨年1月に亡くなった元海兵隊員の遺品から、沖縄県出身者と思われる家族の写真など6枚見つかった。写真館で撮られたと思われる家族写真や小学校の集合写真などで、写っている少女の3歳~小学生ごろまでの成長が確認できる。米兵が戦地から持ち帰った遺留品を遺族に返す活動をしている米国のボランティア団体「キセキ遺留品返還プロジェクト」は、「写真に写っている少女は存命の可能性もある。家族に返したい」と情報提供を呼び掛けている。(社会部・吉川毅)

沖縄タイムス
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/383136

Yahoo
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190209-00383136-okinawat-oki

沖縄タイムス

従軍日誌

捜索は組織表が載っている従軍日誌をよく見るようにしています。
出征された時期や出身地、所属された軍隊名等を特定出来れば
絞れることもできるからです。
それにはかなりの時間を必要とされますが何かしらの
きっかけがひとつでも見つかれば、今まで全く動かなかったことも
ご遺族捜しへ解決へと一気に展開が変わっていきます。

また従軍日誌とは全く異なった、個人的な日記もあります。
今日、ご紹介するのは私のお気に入りの一冊です。
これは高知から出征された父親が遠く離れた戦地から
愛するお子さんへの想いを日々綴られた日記です。

1957年米兵がニューギニアの戦場で日本兵であった
父の亡骸から日記を見つけ、それを日本のご遺族に返還され
アメリカのリーダーズ・ダイジェストにも取り上げられました。

日本語版では、アメリカは案外に近かった!/倉橋 睦
と、娘さんの名前が載っています。

1957年、1月20日付のThe Indianapolis Starにも掲載され
当時かなり有名なエピソードだったそうです。

中にはこの本を読まれ感動しギリシャ語に翻訳し出版もされた方や
ネットでは、2003年出版のChristina Klein 著
”Cold War Orientalism, Asia in the Middlebrow Imagination, 1945-1961”
この論文に睦さんの父上の日記のエピソードが引用されてもいます

「America Seems Near to Me Now」
Asia in the Middlebrow Imagination, 1945-1961 Christina Klein.
them to put the ideal of international commitment into practice.
In 1957, for instance,
Reader’s Digest published an article that invited readers to cultivate
mutual understanding between the U.S. and Japan.
“America Seems Near to Me Now,”
a first-person story written by Mutsumi Kurahashi,
told how a former GI had brought her family great peace of mind
— and good feelings toward the United States — when he returned …

日記はあるアメリカ兵が戦利品として持ち帰り、戦後の昭和31年
大方町のご遺族のもとに届けられました。
高知新聞連載「祖父たちの戦争」(南海支隊の生き残り兵士の記録)
にも載りました。
https://www.kochinews.co.jp/article/164093/
※読まれるには会員登録(無料)が必要

そのお父さんの日記を自費出版したのが娘さんの花井 睦さん。
花井 睦さん編「父が残した戦場日記 ニューギニアから故郷土佐へ」
滅多に本を購入しない私が大切にしている本です。

第59回「高知県出版文化賞」を受賞されています。

2013年8月25日放送の24時間テレビ では
http://www.ntv.co.jp/24h/history/36.html
「日本人18万人が命を落とした戦場 生涯をかけて守った友との約束」

オーストラリアの学校で教材にもなっているという西村幸吉さん宅に
相葉雅紀さんがお訪れ、太平洋戦争のニューギニアの戦いに出征した
西村さんは半年間戦い続けた。
2ヶ月分の食料しか持って行かなかった日本兵は飢えとの戦いにも苦しみ、
西村さんは出兵当時73キロあった体重が帰国時には28キロしかなかったという。
西村さんの戦友・倉橋一美さんの娘の睦さんが毎年行われるパプアニューギニアで行われる慰霊祭に参加していた。
戦後、一美さんの日記が睦さんに届けられ父の思いを知ることができたという。
そして最後の日記に「子ども見たし」と綴った一美さんは、帰らぬ人となった。

戦場という過酷な地でも、息絶えるまでお子さんの事を想い綴った日記です。

旧・手宮駅長官舎

1884(明治17)年築 旧所在地:小樽市手宮町
北海道初の鉄道である幌内鉄道の手宮駅の駅長官舎として建設




出典元 Railstation.net

中でも明治・大正時代に建設された機関車庫、転車台、貯水槽、
危険品庫、擁壁は北海道の近代史・産業史を考える上で
特別な遺産とされ「旧手宮鉄道施設」として国指定重要文化財に
指定されています

現在捜索中の日章旗には名前はないが「手宮駅長」と署名がある。
そのたったひとつのヒントを頼りに小樽市総合博物館へ当時の
駅長名や出征された加藤 實さんの情報を得られないか
問い合わせたところ、やはりこれだけの情報では厳しいそうで
手宮駅のOB会も10年前に解散されたのだという。

ただ、「鉄道省」という新たなヒントを頂いたので
そこからまた捜索すると「鉄道省職員録」をネット上で発見した。

その中に加藤 實さんの名前がありました。
左頁 上段 右から2番目

拡大

更に並列して田村 保さんの名前があり、日章旗にも為書きされた
すぐ近くに「田村」の姓が書かれてあり、再度小樽市総合博物館へ
お問い合わせしたところ嬉しい返答が届きました。

「ご連絡ありがとうございます。
これで旧鉄道省の職員であることははっきりしました。
次はご家族の調査ということになりますが、
前回述べた、当館の元職員に訪ねるしかないかと思われます」

「手宮駅長」という僅かな捜索のきっかけから始まり
ここ数日間で大きく前進しました。

国の国指定重要文化財にも指定されている旧手宮線鉄道に
関わっている日章旗、ご遺族に返還出来るよう
更に捜索を続けて参ります。