ご遺族判明しました。

手帳のご遺族判明で(内々に済ませたいとのこと)日本へ返還予定です
Web上で多大な協力を頂きましたので、お礼だけさせてください。

Japanese war diary could find its way home

 

2015年12月8日の記事を削除せず、載せ続けてくれたOak Parkサイト
(全てはこのサイトから始まりました)
日本語翻訳のお手伝いをしてくださったYokoさん
そして何よりも日本のご遺族への返還希望を持ち続けた
軍医の娘さんでもあるWendyさん。
あなたたちのWeb上での働きかけがなければ
日本のご遺族へお渡しすることが出来ませんでした。

また、捜索中の私へのアドバイスをしてくださった方々の
コメントも助かりました。

心より感謝します、ありがとうございました。

そして、私達は次の日本へ帰還出来るかもしれない遺留品に
既に取り組んでいます!

鈴鹿市庄野町について。


                                              手帳には庄野町六丁目

Twitterに庄野町について、情報をコメントをしてくれた方がいました
手帳には庄野町六丁目と書かれてますが、庄野町は番地制なので
六番地ではないでしょうかといったコメントです。
鈴鹿市公式サイトには、昭和48年からの鈴鹿市住居表示町名一覧表が
載っており、H2年に庄野町が載ってますが
旧町名と新町名変更無しでした。

https://www.city.suzuka.lg.jp/kouhou/gyosei/plan/zyukyo/pdf/09.pdf

いくら庄野町六丁目と検索してもヒットしなかったので
私はてっきりH2年の変更以前に六丁目が他の地域と吸収合併され
変更されているものと勘違いし続け、一覧表に初めて表示された
昭和48年以前の鈴鹿市庄野町の住居表示変更の情報を捜し続けてました

それが、今回のコメントで見つからない理由が解りました。


ストリートビューで鈴鹿市庄野町6と検索すると
東海道五十三次の45番目の宿である庄野宿の石碑が
すぐ近くにある歴史ある場所で、この近くにお住まいだったようです。

庄野宿のこと、知りませんでした・・・スミマセン。

もし、この地域にお住まいで76年前の状況を知っていたら
教えてほしいです。

三重県遺族会へお願いしました。

Japanese war diary could find its way home

 

清水 實さんは、硫黄島の何処ら辺で戦っていたのだろうと思い
今日も検索しまくってたらありました。

「十二糎高角砲配置表」の書類に清水實さんが載っていました。
※書類には名前が稔と書かれていますが兵籍番号が實さんの
呉徴水六四二五六なので書類のほうが誤字です。


十二糎高角砲台 (摺鉢山交代ニヨル)と書かれてます。

 

硫黄島空中写真測図要図  1万分1 昭和19年測図です。
摺鉢山の近くに高射砲陣地が2つあります。
そのうちのどちらかの三番高射砲で戦われていたようです。

また、一緒に捜索に協力してくれているスタッフが
鈴鹿市にお住まいの清水さんにお問い合わせしたところ
残念ながら不発でした。
おそらくこれ以上の情報を得ることは出来ないだろうと思い

手帳以外の収集した情報を含め、三重県の遺族会へと託しました。

住所:三重県鈴鹿市庄野町六丁目
氏名:清水 實
配属:硫黄島警備隊千鳥十二糎高角砲台 第二分隊
三番高射砲 担当
兵籍番号: 呉徴水六四二五六
日記に「田津子」の名前有り

天皇の為に硫黄島の土となるのは惜しまないと
書かれたこの手帳を、實さんの分身となって
日本へと帰還し、土を踏ませてあげたい

そんな気持ちです。

硫黄島からの手帳の捜索

Japanese war diary could find its way home

今日も硫黄島に出征された清水實さんを調べてました。
戦史資料があるサイトを検索したところ
良い資料が見つかりました。

硫黄島警備隊千鳥十二糎高角砲台 第二分隊
資料に清水 實さんが載っていました。

硫黄島 三番高射砲担当
兵籍番号 呉徴水六四二五六です。

ネット上で兵籍番号まで判明することは
あまりないのでこの収穫は大きいです。

 

日記に書かれているのと、今日収穫した情報をまとめると

住所:三重県鈴鹿市庄野町六丁目
名前:清水 實
兵籍番号:呉徴水六四二五六
所轄硫黄島警備隊千鳥十二糎高角砲台 第二分隊  三番高射砲

また、今日新たに写真を送ってきてくれました。


戦線日記 海軍上等兵 清水 九月拾一日
晴天 本日敵機ノ来襲ナリ●戦車配置ニツク事
等々書かれてます

戦時中の硫黄島の砲台位置(S19年11月15日)

今、私が知りたいのは昭和20年に三重県鈴鹿市庄野町六丁目だった
住所が現住所だと何処にあたるのか知りたいです。
鈴鹿市の地名変更の書類を見ましたが、昭和48年からの変更しか
載っていませんでした。

https://www.city.suzuka.lg.jp/kouhou/gyosei/plan/zyukyo/pdf/09.pdf

硫黄島からの日本兵の日記を返還したい!

 

一昨日、ネットサーフィンをしていたら、硫黄島へ出征した日本兵の
日記の返還を望む女性の記事に辿り着きました。

Japanese war diary could find its way home

シカゴ領事館へ依頼したが親族を捜すことが
出来なかったという返答だったそうです。


三重県鈴鹿市庄野町六丁目 海軍上等水兵 清水 實と読み取れる。

日記は軍事訓練を受けていた1938年に始まり
1945年2月17日で終わっている。

そこで、何とか返還させてあげたい気持ちになり
コンタクトを取ってみました。


配属
硫黄島警備隊千島十二糎高角砲

㐧二米臼砲海軍上等水兵 清水 實

私達で暫く捜索してみようと思います。

【追記有り】羽田精機社員の日章旗

 

大河原寿さんの日章旗

羽田精機株式会社と署名されています。

署名されている方々を見ると、為書きされた「大河原」の姓に署名がなく
女性の署名も多いことから、羽田精機に勤務されていた社員達の
署名ではないかと思われます。

追加報告です!(2021.4.14)

羽田精機から出征されたと思われる日章旗 厚労省から
ご遺族が見つかったとの連絡がありました!
また龍ヶ崎市歴史民俗資料館からは、この日章旗には 昭和16年当時の
羽田精機の社長と秘書と外註の3名の 署名が確認出来るとの情報も頂きました。 ありがとうございました!

長谷伊三郎さんの日章旗

新しく日章旗の返還依頼がありました。
依頼主の義理の父がペンシルバニア州の在郷軍人会で知人から預かった
日章旗だそうで、沖縄から持ち帰ったとのことです。

日章旗を見ると、長谷伊三郎さんのご家族・親族と思われる署名が
多く見られます。

 

2019年7月31日 日高報知新聞


日高報知新聞1面トップです!

74年ぶりに米国から写真が弟の元に

http://www.hokkaido-nl.jp/article/12744

 

太平洋戦争末期の激戦地だった南の島・サイパン島で、昭和19年(1944年)夏に戦死した浦河町出身の旧日本兵の遺品が、70年以上の時を経て、米国から同町に住む遺族の弟のもとに返還された。遺品は本人の写真を含め、絵はがきやブロマイドなど約80枚を収めた写真帳。米国で遺留品の返還活動に取り組むジャガード千津子さん(67)=イリノイ州在住・愛知県出身=の諦めない情熱あふれる地道な活動が実った。

写真帳の持ち主は、浦河町井寒台出身の今光五郎さん(大正9年・1920年11月17日生まれ)。満州からサイパン島に配属替えとなり、昭和19年7月18日にマリアナ諸島・サイパン島で亡くなっている。

写真帳に収められている兵士の写真。右が光五郎さん

この遺品を受け取ったのは、井寒台に住む弟の今源次郎さん(89)。光五郎さんが最初の出征地の満州に赴いたのは源次郎さんが10歳ごろ(昭和15年・1940年)で、「兄の姿を見たのはそれが最後だった」という。

この写真帳は、昭和20年(1945年)に元米海兵隊員のアール・パルマロさん(カンザス、昨年1月に93歳で死去)が持ち帰った。遺産整理で娘のマーサー・ミックさん(フロリダ在住)が写真帳を見つけ、ジャガードさんが所属している日本人の遺留品返還に取り組む在米日本人医師が主宰し米国と日本で日本人7人で活動している「キセキ遺留品返還プロジェクト」へ、遺族への返還依頼があり、これまで長い時間を費やし調べてきた。

写真帳や本人の写っている写真(5枚)に名前などの手掛かりになるものはなく、当初、青森県の弘前公園の絵はがきが多いことから、県紙の「東奥日報」に光五郎さんの写真とともに記事を掲載してもらい、知っている人はいないか呼び掛けたが、反応はなかった。

その後、戦友と映っている写真に北海道の帯広地方周辺に多い「小丹枝」の名を手掛かりに、ジャガードさんは昨年11月に来道。戦没者資料の多い旭川市の北海道護国神社などを訪ね、北海道新聞にも同様の記事を掲載。今源次郎さんは、新聞の写真を見て「兄に似てる」と直感し、江別市に住む長男の哲也さん(62)=江別市非常勤嘱託職員=に相談。哲也さんは同神社に「浦河町出身の叔父に似ている」と問い合わせている。

ジャガードさんによると、神社とのやり取りで「浦河町出身の可能性が高い」ということまでは判明したが、哲也さんが神社に伝えていた名前や連絡先などは神社側との行き違いでジャガードさんには伝わらなかったという。

調査先を浦河に絞り、役場経由で本社に同様の写真と記事の依頼があった。浦河町遺族会の事務局は町が担当しているが、資料は戦没者と遺族の名前のみで手掛かりはなかった。

記事掲載前に本社であれこれ探ったところ、町郷土博物館の伊藤昭和学芸員から浦河町史に戦没者の亡くなった場所や戦死月日など詳細な一覧があることを教えてもらい、所有者は今光五郎さんと判明。弟の源次郎さんが健在で、自宅には各新聞に掲載した写真と同じ顔の光五郎さんの写真も数枚所有していた。

米国の遺族からジャガードさん、本社経由で源次郎さんと駆け付けた哲也さんのもとに返還後、21日には僧侶を呼び、親族らで写真帳の供養も行っている。

源次郎さんは、年が10歳離れた兄が戦地で散った時に持っていたこの写真帳を万感の思いで見つめ、返還に尽力したジャガードさんにも「感謝の気持ちを伝えたい」と話している。

ジャガードさんは「目元が亡くなった父に似ていて、これまで光五郎さんの写真は何百回も見てきた」と振り返り、「満州からサイパン島に渡った写真帳が、1945年に米海兵隊員の手でアメリカに持っていかれ、昨年1月まで73年間、カンザスで眠っていた。それが、フロリダの娘さんの手に入り、今年、イリノイ経由で北海道まで旅をしました。若くして果てた兵士の遺品に多くのストーリーが詰まっていると感慨にふけっています」と話している。

2020年5月12日 中日新聞

https://www.chunichi.co.jp/article/mie/20200512/CK2020051202000041.html

旧日本兵の写真帳返したい
米慈善団体の女性が情報呼び掛け

太平洋戦争中に米軍人が硫黄島から持ち帰った遺留品から三重県出身とみられる兵士の写真帳が見つかった。遺留品の返還に取り組む米国のボランティア団体「キセキ遺留品返還プロジェクト」の会員で、写真帳を入手したジャガード千津子さん(68)=米イリノイ州=は「関係者に何とか届けたい」と情報提供を呼び掛けている。

精悍(せいかん)な顔立ちの男性二人が写った写真は、それぞれ「俺」
「下村重治郎」と書かれている。「昭和二年度馬公警備紀念三重縣人會一同」
と記された集合写真には、「俺」らしき男性も含まれる。

 二見興玉神社(伊勢市)の夫婦岩を背景に撮影した集合写真や、
「二見勝四郎」と署名された軍服姿の男性、「二見勝之」「小畠静登」
とそれぞれ書かれた乳児と男性の写真も残されている。

写真帳は米軍人(故人)の孫で、マサチューセッツ州に住む女性が
所有していた。縦一三・五センチ、横二〇・六センチの布張りの表紙で
厚さは二・五センチほど。写真六十枚ほどが収められている。
インターネット上のオークションで出品され、ジャガードさんが競り落とした。

ジャガードさんは「写真帳を見ていると、本人にとってとても大切なものだったことが分かる。戦死した日本兵のことを覚えている人が少なくなっているが、日本人の魂は日本に返してあげたい」と話している。

2019年10月28日 中日新聞

 

兵帽をかぶった青年が写るモノクロの写真。
精悍(せいかん)な顔立ちのこの男性は、太平洋戦争で二十三歳で戦死した
愛知県春日井市出身の右高(みぎたか)進さんだ。
米国へ運ばれた日本兵の遺品を故郷へ送り届ける活動を続けている
ボランティア団体「キセキ遺留品返還プロジェクト」から
写真の裏に書かれた名前だけを頼りに
おいの右高博基さん(74)=名古屋市東区=と
めいの志村満紀子さん(72)=同市西区=の元に写真データが届けられた。
目にした二人は「伯父に間違いない」と顔をほころばせた。

https://chuplus.jp/paper/article/detail.php?comment_id=690485&comment_sub_id=0&category_id=113&from=news&category_list=113