捜索活動をしていると、たまに私達と同じような目的で
捜索をされている方の記事を読む事があります。
引き揚げた恩師どこに 台北の95歳が「石垣先生」捜す
「もう一度お礼を」
2017年09月01日 14時11分
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「このままでは一生後悔する。亡くなっているかもしれないが、
墓参りだけでもしたい」この言葉が私の心を動かしました。
何よりも李さんが95歳とご高齢だったのが気になってしまった。
そこで普段捜索しているのを一時中断し情報を求めている
台湾の王さんのFacebookにアクセスをして
どこまで情報が解っているのか、お話を聞かせてもらったところ
小学校に通っていた年代や学校名しか解らなく
捜索がかなり難航されている状況だという。
台湾で先生の職に就いてるのであれば・・・と
思い当たる節があるので調べてみると
かなり細かなデータを抽出する事が出来ました。
1922年〜1944年まで台湾在住
小学校を転々とし、1940年には山林課に勤務
終戦まで台湾に在住されていたのが判明した。
しかし、ひとつ厄介な事に本籍欄には
1923年〜1939年までは沖縄県
1940年〜1943年までは長崎県
1944年は空欄となっていたこと。
この空欄が何を意味しているのかが解らなかった。
暫くすると、台湾の方から思いもよらぬ悲報が届きました。
新聞記事を担当された西日本新聞台北支局に
勤務されていた中川博之支局長が 48歳という若さで
タクシーに跳ねられお亡くなりになられたとのこと。
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2週間前に恩師を捜し求める記事を西日本新聞に載せてくれたのが
中川支局長だったのに・・・・・
ご高齢の李さんと、中川支局長さん2人の為にもと時間を費やし
そして色々調べ続けた結果2018年6月、ご遺族が判明し
李さんは年齢がひとつ増え、96歳となり長崎へとこられ
石垣先生のお墓参りをすることが出来た。
西日本新聞では(上・中・下)と大きく取り合げられました。
私が今、こうしているのは、先生のおかげですと何度も何度も呟きながら。
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ある琉球人の生涯(中) 日本統治時代の台湾 琉球人は「2等国民」
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ある琉球人の生涯(下) 日本の敗戦 石垣島へ引き揚げることなく
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今までご遺族捜しにボランティアで参加している中で
新聞記事やWebSiteで3編にして取り上げられたのは初めてで
恐らく台北の支局長だった中川支局長の記事が実ったから
西日本新聞社から中川支局長への想いもあるのだろう。
私的にも中川支局長の一周忌を迎える前に判明し
また、李さんが生きている間にお墓参りが出来て良かったです。
こうして、ひとつの返還活動の枠だけに囚われず心を広く持ち
自分が協力出来ることは 率先して協力していこうと思う。
また、遺留品というのは日章旗もあれば千人針・軍事郵便もあり
更にはこのような人との繋がりもあるというのを忘れてはならない。