2019年7月31日 日高報知新聞


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74年ぶりに米国から写真が弟の元に

http://www.hokkaido-nl.jp/article/12744

 

太平洋戦争末期の激戦地だった南の島・サイパン島で、昭和19年(1944年)夏に戦死した浦河町出身の旧日本兵の遺品が、70年以上の時を経て、米国から同町に住む遺族の弟のもとに返還された。遺品は本人の写真を含め、絵はがきやブロマイドなど約80枚を収めた写真帳。米国で遺留品の返還活動に取り組むジャガード千津子さん(67)=イリノイ州在住・愛知県出身=の諦めない情熱あふれる地道な活動が実った。

写真帳の持ち主は、浦河町井寒台出身の今光五郎さん(大正9年・1920年11月17日生まれ)。満州からサイパン島に配属替えとなり、昭和19年7月18日にマリアナ諸島・サイパン島で亡くなっている。

写真帳に収められている兵士の写真。右が光五郎さん

この遺品を受け取ったのは、井寒台に住む弟の今源次郎さん(89)。光五郎さんが最初の出征地の満州に赴いたのは源次郎さんが10歳ごろ(昭和15年・1940年)で、「兄の姿を見たのはそれが最後だった」という。

この写真帳は、昭和20年(1945年)に元米海兵隊員のアール・パルマロさん(カンザス、昨年1月に93歳で死去)が持ち帰った。遺産整理で娘のマーサー・ミックさん(フロリダ在住)が写真帳を見つけ、ジャガードさんが所属している日本人の遺留品返還に取り組む在米日本人医師が主宰し米国と日本で日本人7人で活動している「キセキ遺留品返還プロジェクト」へ、遺族への返還依頼があり、これまで長い時間を費やし調べてきた。

写真帳や本人の写っている写真(5枚)に名前などの手掛かりになるものはなく、当初、青森県の弘前公園の絵はがきが多いことから、県紙の「東奥日報」に光五郎さんの写真とともに記事を掲載してもらい、知っている人はいないか呼び掛けたが、反応はなかった。

その後、戦友と映っている写真に北海道の帯広地方周辺に多い「小丹枝」の名を手掛かりに、ジャガードさんは昨年11月に来道。戦没者資料の多い旭川市の北海道護国神社などを訪ね、北海道新聞にも同様の記事を掲載。今源次郎さんは、新聞の写真を見て「兄に似てる」と直感し、江別市に住む長男の哲也さん(62)=江別市非常勤嘱託職員=に相談。哲也さんは同神社に「浦河町出身の叔父に似ている」と問い合わせている。

ジャガードさんによると、神社とのやり取りで「浦河町出身の可能性が高い」ということまでは判明したが、哲也さんが神社に伝えていた名前や連絡先などは神社側との行き違いでジャガードさんには伝わらなかったという。

調査先を浦河に絞り、役場経由で本社に同様の写真と記事の依頼があった。浦河町遺族会の事務局は町が担当しているが、資料は戦没者と遺族の名前のみで手掛かりはなかった。

記事掲載前に本社であれこれ探ったところ、町郷土博物館の伊藤昭和学芸員から浦河町史に戦没者の亡くなった場所や戦死月日など詳細な一覧があることを教えてもらい、所有者は今光五郎さんと判明。弟の源次郎さんが健在で、自宅には各新聞に掲載した写真と同じ顔の光五郎さんの写真も数枚所有していた。

米国の遺族からジャガードさん、本社経由で源次郎さんと駆け付けた哲也さんのもとに返還後、21日には僧侶を呼び、親族らで写真帳の供養も行っている。

源次郎さんは、年が10歳離れた兄が戦地で散った時に持っていたこの写真帳を万感の思いで見つめ、返還に尽力したジャガードさんにも「感謝の気持ちを伝えたい」と話している。

ジャガードさんは「目元が亡くなった父に似ていて、これまで光五郎さんの写真は何百回も見てきた」と振り返り、「満州からサイパン島に渡った写真帳が、1945年に米海兵隊員の手でアメリカに持っていかれ、昨年1月まで73年間、カンザスで眠っていた。それが、フロリダの娘さんの手に入り、今年、イリノイ経由で北海道まで旅をしました。若くして果てた兵士の遺品に多くのストーリーが詰まっていると感慨にふけっています」と話している。

2020年5月12日 中日新聞

https://www.chunichi.co.jp/article/mie/20200512/CK2020051202000041.html

旧日本兵の写真帳返したい
米慈善団体の女性が情報呼び掛け

太平洋戦争中に米軍人が硫黄島から持ち帰った遺留品から三重県出身とみられる兵士の写真帳が見つかった。遺留品の返還に取り組む米国のボランティア団体「キセキ遺留品返還プロジェクト」の会員で、写真帳を入手したジャガード千津子さん(68)=米イリノイ州=は「関係者に何とか届けたい」と情報提供を呼び掛けている。

精悍(せいかん)な顔立ちの男性二人が写った写真は、それぞれ「俺」
「下村重治郎」と書かれている。「昭和二年度馬公警備紀念三重縣人會一同」
と記された集合写真には、「俺」らしき男性も含まれる。

 二見興玉神社(伊勢市)の夫婦岩を背景に撮影した集合写真や、
「二見勝四郎」と署名された軍服姿の男性、「二見勝之」「小畠静登」
とそれぞれ書かれた乳児と男性の写真も残されている。

写真帳は米軍人(故人)の孫で、マサチューセッツ州に住む女性が
所有していた。縦一三・五センチ、横二〇・六センチの布張りの表紙で
厚さは二・五センチほど。写真六十枚ほどが収められている。
インターネット上のオークションで出品され、ジャガードさんが競り落とした。

ジャガードさんは「写真帳を見ていると、本人にとってとても大切なものだったことが分かる。戦死した日本兵のことを覚えている人が少なくなっているが、日本人の魂は日本に返してあげたい」と話している。

2019年10月28日 中日新聞

 

兵帽をかぶった青年が写るモノクロの写真。
精悍(せいかん)な顔立ちのこの男性は、太平洋戦争で二十三歳で戦死した
愛知県春日井市出身の右高(みぎたか)進さんだ。
米国へ運ばれた日本兵の遺品を故郷へ送り届ける活動を続けている
ボランティア団体「キセキ遺留品返還プロジェクト」から
写真の裏に書かれた名前だけを頼りに
おいの右高博基さん(74)=名古屋市東区=と
めいの志村満紀子さん(72)=同市西区=の元に写真データが届けられた。
目にした二人は「伯父に間違いない」と顔をほころばせた。

https://chuplus.jp/paper/article/detail.php?comment_id=690485&comment_sub_id=0&category_id=113&from=news&category_list=113

2019年8月14日 北海道新聞

北海道新聞が摩周丸記念館から届きました。
(私が買い間違ってしまったためです)
最後の最後まで面倒をみて頂き有難うございました。

記事は主見出しに「戦中の日章旗 摩周丸に」とあり
袖見出しには「米から寄贈 徴兵の 船員宛」

「祝樋坂秦助君入営」と大きくしたためられた筆文字の
日章旗が、函館市青函連絡船記念館摩周丸(’若松町)で
保管されている。
戦時中に徴兵された船員に宛てられた。
米国に長くあったが、今春、記念館に届けられた。
関係者は「貴重な資料として残していきたい」と
平和への願いを新たにしている。(齊藤直史)

「来夏にも公開へ」

日章旗は今年4月、イリノイ週の団体
「キセキ遺留品返還プロジェクト」を通じ
記念館に届いた。

同団体によると、日章旗は元米陸軍兵士の
ウイリアム・ザビンスキー氏(故人)の
息子2人が所有していた。

ザビンスキー氏は戦時中、グアムやフィリピンなどに
配属され、戦後は1945年9月から46年11月まで進駐軍
として北海道に滞在した軍歴が残っている。

一方、日章旗の入手時期については家族にも
話してないという。

息子2人は日本への返還を希望。
記念館を訪れたことがある団体関係者が
旗に残された同船の山田友二さん(94)の署名を
もとに打診した。
山田さんは1944年(昭和19年)に3等航海士となり
樋坂秦助さんは連絡船「飛鸞丸」の操舵手として
共に働いた年上の同僚だった。
召集は「その年の夏頃」と記憶する。

樋坂さんの出征記録や、戦後の足取りについては
はっきりしていない。
97年時に、同姓同名の人物が民生委員として活動した
記録が函館市に残る。
「近所に住んでいた」
「戦後も青函連絡船の職員として働いていた」
などの市民の証言もあるが、日章旗をおくられた
樋坂さんと同一人物であるか、確認は出来ていない。

日章旗には日の丸を同僚らの「玉砕」「撃滅」と
いった言葉が囲む。
当時多用されていた「至誠」の言葉を記した
山田さんは「無事に帰ってきていたなら、もう一度
会いたかった。日章旗は本人に返還されることが
望ましい」と話している。

寄贈を受けた記念館の指定管理者のNPO
「語りつぐ青函連絡船の会」にょると
連絡船は戦時中、石灰輸送などの国策を担い
次々に造られた。船員は不足していたとみられ
徴兵は珍しかったとみられる。
一方、45年7月の函館襲撃で300人以上の船員が
なくなっている。
同会の高橋摂事務局長は「筆文字や汚れなど
保存状態が大変良い。二度と悲惨な戦争を
起こさない思いを強くした」と話す。

同会は来夏にも展示会で日章旗を公開する。

今回の日章旗の返還にご協力してくださった

HTB放送報道部の皆さま(FB)
摩周丸記念館
北海道新聞
賢明女子学院 松浦校長様

有難うございました。

2019年7月26日 朝日新聞海外版

 

http://www.asahi.com/ajw/articles/AJ201907240001.html

http://www.asahi.com/ajw/articles/AJ201907240001.htmlWhen Yasuhiko Kaji heard about someone seeking assistance in returning the photo album of a Japanese soldier found on Saipan to its original owner,
he “enlisted” in a repatriation effort of his own.

As many belongings of Imperial Japanese Army soldiers are sold at flea markets in the United States featuring military-related items, Kaji began purchasing a Hinomaru flag filled with farewell comments, a pocket notebook, picture and other keepsakes.

When the mementos bear the owners’ addresses or the names of their hometowns, he contacted their families to hand the items over. Some people who learned about his activities have even made donations over the years.

“If souls exist in this world, I would like them to return to their families along with their keepsakes,” said Kaji.

Kaji, a doctor from Mie Prefecture who lives in the United States, has been returning the personal possessions of Japanese soldiers killed in World War II to their bereaved families for half a century.

Kaji, 85, who resides in Ohio, began 50 years ago seeking the relatives of Japanese service members who died in the bloodiest battlefields in the war, so that their Hinomaru rising sun flag, letter, photo and other articles taken by U.S. military personnel can be repatriated.

Having a grandfather and father working as military doctors, Kaji enrolled in Nagoya University’s school of medicine, studied at a graduate school and then started working as a researcher at a U.S. college.

He later opened an obstetric clinic in the United States.

Around 1970, a woman who later became Kaji’s wife was asked by an American friend to help repatriate the photo album found on Saipan. That started Kaji on his long path to returning the wartime souvenirs brought back to the United States.

Kiyoshi Nishiha, a close high school friend of Kaji, opened a dedicated website around 2004 to assist in his efforts. More than 20 items collected by Kaji and shown on the site have been returned to their bereaved families.

After Nishiha died in 2010, his eldest daughter joined Kaji’s project according to the wishes of her late father. A friend of Kaji, who is a retired U.S. service member, also started assisting in the effort.

One of those new members, Chizuko Jaggard, now 67, who hails from Kariya, Aichi Prefecture, moved to Illinois after graduating from a university. She found a Hinomaru flag while sorting through the possessions five years ago of her late father-in-law, a former U.S. Marine.

Hoping to repatriate the flag, Jaggard contacted Kaji’s group, called Project Returned Memories Kiseki, through his site to join the activity. The group currently comprises Kaji and two others living in the United States and four people in Japan.

In November 2018, Jaggard visited Emi Nomura, 54, who lives in Yokohama, and her father, who resides in the Goto island chain off Nagasaki Prefecture. She had with her an old letter penned by Nomura’s uncle, Shigeo Yamaguchi, which is addressed to his supervisor at the company where he worked before going to the front.

Yamaguchi was killed in fighting in the Marianas in the western Pacific around July 1944, according to Nomura.

Reading the letter, Nomura felt that “my young uncle must have had many things he wanted to do after returning from the war.”

The returned missive was one of 11 letters found among the personal possessions of a deceased U.S. Marine in May last year.

Jaggard, who has also contributed articles to newspapers calling for the repatriation of mementos of the war dead, has been searching antique shops and estate sales for keepsakes of Japanese soldiers for five years. She is concerned about the decreasing number of bereaved family members over time.

She also said some younger bereaved relatives are not interested in their ancestors and are unwilling to accept their families’ keepsakes.

“I want to return mementos in a way that both recipients and senders will feel happy about,” Jaggard said.

For more details on the activity, contact Project Returned Memories Kiseki at (senso_ihin@outlook.jp)

2019年7月9日朝日新聞(夕刊)

私達の50年の返還活動の歴史が書かれています。

太平洋戦争中の激戦地に残された日本兵の遺品。
日章旗や手紙、写真といったものが米軍兵士によって持ち帰られたが、
50年ほど前、遺品を持ち主の遺族らに返す取り組みが米国で始まった。
始めたのは米国に住む三重県出身の医師だ。
半世紀近い地道な活動はいま、新たなメンバーに引き継がれている。

昨年11月、横浜ログイン前の続き市の野村恵美さん(54)は、長崎・五島列島で暮らす
父親と一緒に1枚のはがきを受け取った。

はがきは、伯父の山口茂男さん(故人)が出征前に働いていた会社の上司に
宛てたもの。野村さんによると、山口さんは西太平洋のマリアナ諸島で
1944年7月ごろに戦死したという。はがきを目にして「若かった伯父は戦争から帰ったら、やりたいことがたくさんあったんだろう」と感じた。

野村さんを訪ねてはがきを届けたのは米イリノイ州に住むジャガード千津子さん5年前から日本兵の遺品返還に携わっている。はがきは昨年5月、元米海兵隊員の遺品を調べている中から出てきた11枚のうちの1枚だった。

ジャガードさんが加わる遺品返還活動は、米オハイオ州に住む加治安彦さん
が半世紀近くかけて築き上げてきたものだ。

加治さんは三重県出身で、祖父や父は軍医。
加治さんは名古屋大医学部に進み、大学院を経て米国の大学で研究員になった。その後、米国で産婦人科医院を開業した。

70年ごろ、後に加治さんの妻となる女性が、米国の知人から相談を受けた。
サイパン島から持ち帰られた旧日本兵の写真帳を持ち主に返したいという
話だった。

その出来事をきっかけに、軍装品のフリーマーケットで旧日本兵の遺品が多く
売り出されていることを、加治さんは知った。
寄せ書きされた日章旗や手帳、写真などを買い取り始めた。

住所や出身地がわかるものは、直接家族に連絡して返した。
加治さんの活動を知って寄付してくれる人もいた。
「もしも魂というものがあるならば、もう一度遺品と一緒に、
家族のもとに戻ってほしい」という気持ちだった。

2004年ごろ、高校時代の親友だった西羽潔さん(故人)が専用の
ホームページを制作。
加治さんが収集した遺品を掲載し、20点以上を遺族に返すことが
できたという。しかし、西羽さんは10年に亡くなった。

今度は、西羽さんの長女が父の遺志を継ぐように加わったほか、
加治さんの知人である米国の退役軍人らも参加してきた。
ジャガードさんも後に加わった一人だ。

愛知県刈谷市出身で、大学卒業後に米国に渡ったジャガードさん。
米海兵隊員の義父が亡くなり、5年前に遺品整理をしていて
見つけた日章旗を持ち主に返そうと思ったのが、
活動に加わったきっかけだった。
加治さんらのホームページを通じて、連絡をとった。

今、活動のメンバーは加治さんを含め米国に3人、日本に4人。ジャガードさん
は新聞に遺品返還を呼びかける記事を寄稿したり、古物商や遺産を売却処分する
エステートセール」などを回ったりしている。

ジャガードさんは「時間とともに遺族が少なくなっていく」と憂える。
世代によっては関心がなく、受け取りをためらう遺族もいるという。
「遺品を受け取る側と送る側が、ともに喜べる返還をしていきたい」

(小川崇)

 

January 7, 2019 THE PANTAGRAPH

イリノイ中部Bloomington/Normal市(人口約10万人)
退役軍人向けの紙面に私達の活動内容が紹介されました。

 

Web版
https://www.pantagraph.com/news/local/veterans-corner-project-returns-war-memorabilia/article_526851b0-dd70-5c99-a75c-96a88615f69f.html

World War II was a brutal conflict and it was common in the aftermath of battles for soldiers to acquire personal items of the fallen from the battlefield.
Many soldiers on both sides returned home with these artifacts from their fallen enemies as keepsakes. Too often, many of these artifacts do not find a permanent place in the following generation’s lives after the American veteran passes and are often simply thrown away.

“Project Returned Memories Kiseki” is a group trying to locate artifacts taken from Japanese soldiers and return them to the families. The project began in 1971 and has returned hundreds of war memorabilia to families in Japan. If you have Japanese “battlefield memorabilia” from the Pacific Theater of World War II, especially postcards, pictures and other personal items, and would like them to be returned to the soldiers’ families, contact Chizuko “Chiko” Jaggard at 309-706-2055, Carlock. The project usually asks for information about items, where and how they were found, etc., to aid in locating the families. The project does not collect the items from the donors until the families are found.

2019年2月9日 沖縄タイムス(WEB版)

「昭和十一年一月 宇栄原キミヨ」さんの写真
持ち主探してます 元米兵の遺品から見つかる」

2019年2月9日 05:00

 太平洋戦争に従軍し、昨年1月に亡くなった元海兵隊員の遺品から、沖縄県出身者と思われる家族の写真など6枚見つかった。写真館で撮られたと思われる家族写真や小学校の集合写真などで、写っている少女の3歳~小学生ごろまでの成長が確認できる。米兵が戦地から持ち帰った遺留品を遺族に返す活動をしている米国のボランティア団体「キセキ遺留品返還プロジェクト」は、「写真に写っている少女は存命の可能性もある。家族に返したい」と情報提供を呼び掛けている。(社会部・吉川毅)

沖縄タイムス
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/383136

Yahoo Japan
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190209-00383136-okinawat-oki

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